28:元婚約者
そこにいたのはリオンではなく、二度と会わないだろうと思っていた人物だった。
「リチャード殿下……」
かつての婚約者、リチャードだった。
「探したよ、シャーロット」
まるで婚約破棄などなかったかのような笑みでシャーロットの名を呼ぶ男に嫌悪感しかない。
三年の歳月はリチャードを大人にしていた。艶やかな黒髪は昔のまま、整った顔立ちは、最後に会ったときはやや幼さが残っていたのに、今はもう大人の男になっている。確か今年で二十歳。
三年も経ったというのに、その性格の悪さと頭の悪さは隠せていない。
でなければ、わざわざ元婚約者にこうして近寄ってなど来ない。
シャーロットに慣れ慣れしく触れている手を払いのけると、リチャードは不愉快そうに顔を顰めた。
「どうしてここに?」
相変わらず見目はいいが、よく見ればリチャードはどこかやつれ、隣には新しい婚約者であるはずのベリンダがいない。
「君がいなくなってから大変だったんだ」
手を払われたというのに、懲りずにリチャードがシャーロットに近寄る。
「私は騙されていたんだよ、シャーロット」
「騙されていた?」
「ああ。ベリンダはとんだ毒婦だった」
リチャードはどこか芝居がかった様子で話す。
「ベリンダの話は全部嘘だった。すまない、確認もしないで君を追い出してしまって。あのあと苦労しただろう」
「いいえ、まったく」
「嘘を吐くんじゃない」
本当に大した苦労はしていないのだが、リチャードは信じてくれない。いや、きっと信じたくないのだ。リチャードにとってシャーロットが苦労していたほうが助かるのだ。
「その様子だと、帰って来た国王陛下にこってり絞られましたか」
図星なのだろう。リチャードの表情が一瞬で険しいものに変わった。
元々そうなるだろうと思っていた。シャーロットとリチャードの婚約は、国王陛下が嫌がるシャーロットの父親を、根負けさせて何とか認められたものだった。つまり、国王自らが願い出るほど、重要なものだったのである。
それを勝手に破談にした。それのみでなく、あれだけ国王が国に縛り付けようとしたオルドン家を国外追放していた。
国王の怒りはきっと計り知れないものだったであろう。
きっと、王太子といえど、重い罰を与えたに違いない。だからリチャードはわざわざこうしてシャーロットに会いに来たのだ。国王の機嫌を直させるために。
「シャーロット、もともと私たちは婚約していたのだから、改めて私たちが結婚すればいいと思わないか」
「正気ですか?」
「もちろん、そうすれば丸く収まるんだ」
どう考えたらそんな結論に行きつくのかわからない。
オルドン家はすでにこの地に根を下ろし、爵位までもらっている。
つまり、その一家を無理やり自分の国に連れ戻すのは、このディルマルク王国にケンカを売っているようなものである。
――五年経っても馬鹿は本当に馬鹿だわ!
「な? シャーロット。俺のために頼む」
再び手を伸ばされて悪寒が走った。
しかしその手はシャーロットには届かなかった。
「シャーロットに触るな」
リオンがリチャードの手を強く握っている。そのまま腕を捻り上げた。
「い、痛い痛い痛い! 私にこんなことをしてただで済むと思っているのか!?」
リチャードが偉そうにリオンを脅すが、リオンは動じない。
「お前こそ、立場もわきまえずに図々しいな」
冷めた目でリオンに見つめられ、リチャードは屈辱で顔を赤くする。
「わめく声が不快だから、特別に離してやるよ」
痛みに呻くリチャードから手を離すと、リチャードが慌てて乱れた髪を手で整え出した。相変わらず、自分の見た目をどんなときでも重視する男だ。好きになれない。
それはリオンも同じなのだろう。リチャードの一連の流れを不快そうにしながら、リオンは口を開いた。
「お前はもう王太子でもないだろう。廃嫡されて、浮気相手の家に婿に入ったけど、妻の家は貧乏だし、妻からは王太子じゃなくなったことを責められて、居場所がないんだったか」
リチャードが顔を青くした。
「ど、どうして知っている……」
「どうしても何も、さすがに隣国の王太子がしでかしたことぐらい、耳に入る。貴重な薬の開発技術を持っている伯爵令嬢との婚約を破棄するだけで飽き足らず、その一家を国から追い出したんだろう? それもわざわざ国王不在のときを狙ってな。優秀な技術と薬開発で国の財源を潤わせてくれていた伯爵家を追い出したことで国王は激怒。お前は廃嫡になり、あとはさっき言った通りだな」
知らなかった。家族はリチャードのことがシャーロットの耳に入らないようにしてくれていたし、おそらくリオンもそうしてくれていたので、一切その後の情報はなかった。リチャードにも興味がなかったから、自分でも調べようとも思わなかった。
すべてを暴露されたリチャードが憎々し気にリオンを見るが、すぐにシャーロットに笑顔を見せる。
「なあ、シャーロット、一緒に国に戻ろう。君も、生まれ育った国のほうがいいだろう?」
「え? 嫌です」
はっきりとシャーロットは言い切った。
自分を追い出した国に戻りたくなどないし、もうこちらで三年過ごしている。すっかりこちらに馴染んでしまっているし、わざわざ戻るメリットがない。
「ベリンダとはもう愛情なんてないんだ。な? 安心してくれ」
「何に安心するのかわからないのですけど、まだ結婚してるんですよね?」
「そうだけど、君が戻れば父も離縁させてくれる。そうすれば君は王太子妃になれるんだ」
馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、本物の馬鹿だ。
たとえシャーロットを連れ帰っても、国王が許すはずがない。シャーロットが喜んで帰ればもしかしたら別なのかもしれないが、シャーロットは絶対嫌だし、もし無理やりシャーロットを連れ帰ったら家族が黙っていない。
国王が望んでいるのが、オルドン家の薬草と薬の開発だ。しかし、オルドン家の機嫌を損ねれば、当然それは手に入らない。つまり、リチャードが語っていることはすべてありえないことなのだ。
「ベリンダに嫉妬しているのかい? あんな女より君のほうが何倍も美しく聡明だと気付いたんだ」
「なぜどうでもいいあなたに嫉妬しなければいけないのかわかりません」
「シャーロットは素直じゃないな」
この男は耳がついていないのか。はたまた本気でシャーロットがリチャードに気があると思い込んでいるのか。
リチャードはナルシストだから、本気でシャーロットは自分のことが好きだと思い込んでいそうだ。シャーロットは婚約しているときでさえそんな素振りは見せなかったというのに、頭がおかしい。
「絶対あなたと一緒にはいかないし、あなたのことは好きじゃないです。お帰りを」
シャーロットはきっぱりと拒絶した。
しかしリチャードはあきらめない。
「そんなこと言わずに」
シャーロットの手を無理やり握る。シャーロットはそれを振り払おうとしたが思ったより力が強い。
ぐい、とリチャード側に引っ張られそうになり、シャーロットがよろけそうになると、今度は反対側の腕を握られた。
リオンだ。
「その手を離せ」
睨みつけるリオン。
「そっちが離せ!」
あきらめないリチャード。
そして面倒な状況に頭を抱えたいシャーロット。しかし両手が空いていないのでそれもできない。
「ちょっと……!」
二人から引っ張られるシャーロットは正直腕が痛い。
シャーロットはリチャードを睨みつける。
「離してください!」
「そんなこと言わずに……シャーロット、拗ねてるんだろう?」
「いえまったく。あなたに興味もなかったというより嫌いだったので」
むしろ今はその辺にある小石と同じような役に立たない邪魔な存在だと思っている。
「シャーロット。私たちは婚約していたんだ。よく考えてみろ。本当は私たちは結婚して悠々自適に暮らしていたはずなんだ」
「反吐が出ますね」
まったく意見を変えず、言いたいことをはっきり言うシャーロットに、にこにこ愛想よくしていたリチャードは豹変した。
「くそっ! こっちが下手に出たら調子に乗りやがって!」
元々短気な男だ。言うことを聞かないことも、自分をコケにされたことも腹に据えかねたのだろう。
リチャードは怒りを露にしながら、シャーロットの腕を離すと拳を振り上げた。
シャーロットが衝撃を覚悟して目を閉じる。
が、ぐいっと反対側に引っ張られる感覚がした。
ポスッ、とリオンの胸の中に飛び込んだ。
すでにシャーロットと並ぶ身長になったリオンに抱きしめられる形になって、シャーロットはどう反応していいかわからない。
「女性に手を出すとは男の風上にも置けないな」
「何だと!?」
「こんなのが王太子だったとは……ベルンリンドもたかが知れているな」
「なっ……ガキがふざけやがって!」
シャーロットに向けていた拳を今度はリオンに振り降ろす。リオンがシャーロットを自分の後ろに隠した。
「リオン!」
シャーロットが声をかけると同時に、ドスンと大きな音がした。
リオンがリチャードを抑え込んでいた。
「いたた! くっそお! この女のせいだあああ!」
「そんなわけあるか。自業自得だろ」
リオンがあきれた声を出す。
「お前が廃嫡されたのも、嫁にないがしろにされるのも、誰にも見向きもされないのも、すべてお前が招いた結果だ。それをシャーロットのせいだなんて、責任転嫁も甚だしい」
「うるさい! お前に何がわかる!」
「お前みたいな自分勝手な人間のことなんかわからないし、わかりたくもない」
リオンに抑え込まれたまま、リチャードが悔しそうに呻いた。
「……いや、俺も昔のままだったらお前のようになっていたかもしれないな」
リオンがぽつりと小声で漏らす。リチャードは痛みで聞こえなかったようだったが、シャーロットには聞こえていた。
昔のリオン。出会った頃のリオンは小さいながらに暴君で、あのまま成長していたら、どうなっていたことだろう。
もしかしたらリチャードのように、自分本位で国を乱す人間になっていたかもしれない。
しかし、リオンはそうならなかった。
きちんと善悪の見分けがつき、相手の言葉に耳を傾けられるようになった。
リオンとリチャードは違う。
「何にせよ、こちらでこんな騒ぎを起こしたんだ。向こうの国には送るが、前より辛い暮らしが待っていると思ったほうがいいいぞ」
「なっ……」
「自業自得だな」
その言葉を聞いて、必死にもがいていたリチャードは途端に力をなくし、がっくりと項垂れた。
自分でももうダメだというのがわかっていたのかもしれない。それでもここまで来て足掻いたのは、過去の栄光を忘れられなかったのか、今の自分が認められなかったのか。
「連れていけ」
いつの間にいたのか、リオンの後ろに控えていた兵士にリチャードを受け渡す。
リチャードは国に戻り、それ相応の罰を受けるのだろう。身から出た錆だ。哀れに思う気さえしない。
「あの、リオン」
恐る恐る声をかけると、リオンが肩をピクリを動かした。
「助けてくれてありがとう!」
「べつに、女性を助けるのは当然だ」
シャーロットはリオンの言葉にクスリと笑う。まだ十歳なのに立派な紳士だ。将来が楽しみである。
と、リオンが手を差し出してきた。
「もう一曲いかがですかレディ?」
いたずらに笑うリオンの差し出した手に、自身の手を乗せた。連続で踊るのはよくないが、今ここには人もいない。もう一曲ぐらいいいだろう。
シャーロットはリオンとのダンスに夢中になった。
「あれ? 婚活してないじゃない!」
シャーロットがその事実に気付いたのはすべてが終わったあとである。




