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思わず、ではなくそれはもう極自然に喉を通った指の肉。
残った骨までバリバリ噛み砕いていた時には流石に冷静になった。
(いや、待て。どう考えてもおかしい。吐き出そうとしているのに咀嚼して飲み込むとか「間違えた」というレベルじゃない)
自分の意思に反して口の中の骨を噛み砕き、僅かに残った肉片が舌に触れた時、俺は意識を持っていかれるほどの衝撃に打ち震える。
何という美味さ――こんな美味なるものがこの世に存在していたのか?
自分が今まで「美味い」と思って食べていたものは一体何だったのか?
陶酔しながらも冷静な部分が有り得ない思考だと判断するが、それもいつまで保つかわからない。
目の前にいる彼は自分と同じ遺伝子強化兵であり、元帝国民で同胞でもある。
(それを「極上の肉」扱いするなど――)
思考がままならぬ中、不意に彼の放った言葉が頭を過る。
「早く食わせろ」
これはどういうことだ?
「お前で、三人目」
つまり、お前は既に二人食ったのか?
「ようやく見つけた」
探すほどに、狂わされるものなのか?
(いや、違う。この感覚は確かにあの時――)
脳が理解することを拒絶する。
だが、俺は認めてしまった。
食うほどに満たされる喜び。
意識すら奪われるほどの高揚感。
意味もわからず「食わなくては」と駆り立てられ、衝動のままに食らいつく。
(思い出した。俺は、既に一人食っている)
今になってようやく理解できた。
あの時、森で襲った見たこともないモンスターと思ったあの巨大ダコは、恐らく俺と同じ遺伝子強化兵――その肉に食らいついた時と全く同じ現象が今起こっている。
抗い難いほどに魅力的に映る眼の前の同胞――しかしそれは向こうも同じなのだ。
俺は口元を手で抑え、今にも飛びかからんとする衝動と戦う。
だが、俺が幾ら抗ったところで、既に衝動に飲み込まれている彼は違う。
最早「勝算など知ったことか」と明らかに自身が異常な状態であるにも関わらず、フラフラと覚束ない足取りで俺に向かって歩く。
指の欠けた手が俺に触れ、それを嬉しそうに口を開けて笑う姿を見た時、彼が既に手遅れであることは明白だった。
「ヤッ、ド……グエル」
哀れみすら覚えるこの姿に「終わらせてやる」などという言葉は出てこない。
その声が、血の匂いが、傷口から見える肉が俺を狂わせる。
ヨロヨロと俺との距離を更に詰め、口を開けて噛みつこうとする。
あと僅かというところで、俺の理性は決壊した。
「ガアァァァァァァッ!」
両手を伸ばし、彼の頭と肩に手を置くとその首筋に革鎧の上から噛み付く。
悲鳴が聞こえた。
肉ごと噛みちぎられた異物を吐き出し、革鎧を引き裂くと宙を彷徨う二の腕を噛み千切る。
その肉を咀嚼し、美味さに打ち震えながら目の前の御馳走を地面に押し倒し貪り食う。
相手の抵抗が意味をなさず、視界が真っ赤な血で染まる中、小さく「助けて」という声が耳に届いた気がした。
それがこの戦いの最後の記憶となった。
目を開ける。
意識がなかったという言い訳はしない。
彼は俺が殺し、俺が食ったのだ。
目の前には食い散らかされた原型を留めていない死体があり、スタジアムにはオークの気配は全くない。
篝火によって照らされた残骸は、赤黒い血の塊さえ赤々と映し出しており、自分がどれほど非常識な量の肉を腹に収めたのかが嫌でもわかる。
血で染まった口を腕で拭ったが、体中が血塗れで何処でやろうと同じことだった。
(ここから移動しなくては……)
前と同じならば、この後には耐えられない眠気に襲われる。
眠ってしまう前に安全な場所へと移動する必要がある。
だがそんな場所に心当たりなどあるはずもなく、どうしたものかと焦りが生じる。
隠しておいた荷物の回収もしなくてはならないが、今はそれどころではない。
(そうだ、いっそこのスタジアムの入り口を壊し、オークが入ってこれないようにすれば良いのではないか?)
あるかどうかもわからない場所を探すよりも、ここを安全地帯にしてしまった方がまだマシだ。
当然俺のように入ることはできる不確かなものだが、それでも最悪の状態は避けられる。
俺は急ぎ観客席へと走り、出入り口を破壊する。
「後幾つあるのか?」と焦りを覚えるが、破壊自体はスムーズで移動も迅速に行える。
グラウンドにある篝火だけでは光量が足りず、少々見えにくいがこちらも夜目が利くので問題はない。
ならば後は時間だけだ。
前回と同じく時間との勝負となるわけだが、三つ目の出入り口を壊したところで早速眠気がやって来た。
しかしまだ猶予はある。
俺は残りの出入り口の破壊を急ぐ。
間に合ったかどうかは俺が目を覚ましてみないとわからない。
(やるべきことはやった。後は運を天に任せるのみ……)
誰もいないスタジアムの観客席――そこで俺はサイズの合わない椅子を押し潰すように座り、襲ってくる眠気に抗うことなく目を閉じた。
光――それが朝日かどうかはまだわからないが、俺は無事に目を覚ますことができた。
いや「できてしまった」というのが気分的には正しいだろう。
眠っていた時間など考えるべきことではない。
俺は立ち上がると周囲を見渡し、求めているものを見つけるとそちらに向かって歩く。
そして何の変哲もないコンクリートブロックの前にまで来ると徐に体を捻じり腕を振りかぶった。
「クソがぁぁぁぁぁぁぁっ!」
一切手加減なしの一撃をブロックに打ち込み粉砕する。
俺は自分の喉に手を当てて今しがた出た声の確認したが、喜ぶ気など微塵も起きない。
無言で次の一撃を放つとコンクリートブロックが壊れ、破壊した出入り口に横穴ができてしまった。
怒りのはけ口を求める俺は次を探す。
夢で見た科学者の笑いが今もなお耳に残り、何度も感情のスイッチが切り替わるがそれでもこの怒りが止まらない。
二度、三度と壁を殴り壊し、酷い頭痛に襲われるほどに感情抑制機能が発動した結果、どうにか平静を保てるくらいには頭が冷えた。
「……今更声が出せて何になる?」
観客席の段差に腰掛け、乾いた血がこびり付く手で顔を覆う。
今後のことを考える。
だが幾ら前向きにものを考えようとしても、俺に待ち受けるであろう未来を思えば何一つとして笑えない。
ぐちゃぐちゃの感情のままでは思考がまとまらず、指の隙間から見える彼の残骸が俺を現実に引き戻す。
「辛かっただろうなぁ……苦しかったんだろうなぁ……」
思えば俺が食ってしまったあの巨大ダコも、その苦しみの果てにああなってしまったのかもしれない。
「後、一人だったんだなぁ……そりゃあ勝機がなくなっても挑むわなぁ……」
そして次は俺が「後一人」を探す番だ。
あの科学者の言う通りならば、恐らく俺が人間として理性を残せるのは長くて五年。
但し、これは余程運が良くなければならず、長くなればなるほど彼のように苦しむことになる。
現実的に考えれば最短で二年――ならば三年をタイムリミットと考えておくべきだろう。
「しまったなぁ、蜘蛛男を食っておけばよかっ……た?」
そこで思い出した。
俺は何処を拠点にしていた?
「蜘蛛男の失敗作は対象になるのか?」
残っているはずだ。
俺は立ち上がり隠したリュックの場所へ行って荷物を回収。
取り敢えずタンクの水を体にぶっかけタオルで血を拭う。
もう一度水を頭から浴び、冷静さを取り戻すと大きく息を吐いた。
「よし、一先ず目的は拠点に戻って蜘蛛男の失敗作を食う。それで三度目の夢が見られるならばそれでよし。そうでないなら……」
いや、これはそうだった時に考えるべきことだ。
俺はリュックを背負いスタジアムから脱出すると拠点に向けて走り出した。
評議会の彼女に一言くらいあっても良いかとも思ったが、最悪のケースを想定すれば、関わりすぎるのは良い結果にはならない。
エルフとは少しばかり距離が近づきすぎたが、彼らならば「もしかしたら……」と期待はできる。
俺は走る。
まだ希望は残されているのだから――
ちなみに俺の相棒はまだお出かけしたままだった。
声よりもそっちが欲しかったよ。
(´・ω・`)次は別視点。




