172 とある傭兵の叫び2
黒く変色したアルゴスを前にこの場にいる全員の動きが止まる。
それが何を意味するのか?
エルフの連中ですら困惑を隠せないでいるのだから知る者はいないだろう。
息を吞む音が聞こえたが、自分のものであると理解するのに数秒かかった。
「嫌な予感がする。下がれ」
前にいるアニーに聞こえるくらいの小声で話すが、聞こえている声は実際のものよりずっと小さく、思い通りに喋ることができているか自信はない。
だが動けないのか、それとも目の前の聖剣を確保しようとしているか、アニーは下がらなかった。
最初に動いたのは片腕を失ったエルフの魔術師。
聖剣を奪わせまいと傭兵たちも動き出し、遅れて俺も走り出す。
斬られたマーカスに視線を送るが、こちらに気づいた彼を抱える魔術師が首を横に振っていた。
(爺さんの仇も取る必要があるか!)
二度の完全回復薬の使用により、鈍くなった感覚に戸惑いながらも走る。
アルゴスが動かない間に全てを終わらせるのが理想。
あの状態がいつまで続くかはわからない。
黒くなることでどのような変化が起こるのかもわからない。
ただ「下手に手を出せば取り返しのつかないことになるのではないか?」という不安だけは、この場にいる全員の一致だと思われる。
だからこそ、この状況でアニーは魔術師との射線をアルゴスで切るように動き、聖剣へと手を伸ばした。
この時ばかりはアニーの軽装に感謝した。
しかし伸ばしたその手が聖剣に触れる前に、森から出てきたエルフの二人が放った矢がアニーの足を止める。
続く魔術による爆発でアニーが後ろに跳ばざるを得ず、距離ができたその瞬間に滑り込むようにエルフの魔術師が聖剣に近づき手をかざす。
「――!」
エルフ語はわからないが、後ろから「聖剣を動かすつもりです、気を付けて!」と種火所属の魔術師が叫ぶ声が聞こえた。
同時に聖剣が浮かび上がる。
このままでは持ち去られてしまうと相棒を盾に突っ込むつもりだった足が止まる。
動いたのだ。
「――、アルゴス!」
すぐ傍にいるエルフの魔術師が何かを叫び、黒くなったアルゴスが顔を上げ立ち上がる。
唸り声のような音を発し、ゆっくりと周囲を見渡すとその視線をピタリとそれに固定した。
直観的に「聖剣を見ている」と思った俺は目の前の状況に注視する。
聖剣を取り返すためには何をすべきか?
アルゴスがどう動くかで全ては決まる。
そう思っていたのだが、予想に反してアルゴスは動かない。
ただ呆然と立ちすくんでいるだけである。
「ははっ」
笑い声が響く。
聖剣をその手に浮かせたエルフがその場から飛び退く。
同時に聖剣がアルゴスの首目掛けて矢のように放たれた。
好機と捉えたエルフの魔術師が聖剣を飛ばし、仲間の元へと後退する。
割って入り、聖剣を叩き落して回収するのは間に合わない。
「判断を誤った」と走り出す俺の横を何かが猛スピードで通りすぎた。
俺の前には拳を振り抜いたアルゴス。
足を止め、後ろを見るとそこには地面に突き刺さる聖剣。
何が起こったかはすぐにわかった。
あの速度で飛ばされた聖剣をアルゴスは殴り飛ばしたのだ。
それどころか距離を詰め、エルフの魔術師に手が届くところにまで接近していた。
(速度が上がっている? いや、殴った拳にも損傷がない?)
殴るための予備動作がわからなかった。
そして殴った拳からは血の一滴は疎か、傷がついた様子も見受けられない。
明らかに今までと違う――そう判断しアニーの腕を掴み下がらせる。
巨人殺しを構え、アルゴスの動きに備えた時、エルフの持つ薄っすらと紫色に光る弓から閃光が放たれる。
これまで何度も状況を変えてきた光の正体を知ることになったが、アルゴスはそれをあの距離にもかかわらず片手で受け止め、そのまま握り潰してみせた。
足止めすら叶わず、逃げることの叶わなかった上半身を無くしたエルフが崩れ落ちる。
光の矢を放ったエルフが何か呟き後ろに一歩、二歩と信じられないものを見たような表情で下がる。
「アアアぁぁぁあああああァァァ!ッ」
アルゴスがガタガタと体を揺らし、大気を震わせるように吠える。
今まで聞いたどの声とも違う異常さを感じた俺は全員に下がるように声を上げる。
だがその判断は遅すぎた。
真っ先に狙われたのは光の矢を放ったエルフ。
彼は一瞬で距離を詰められると上半身を文字通り吹き飛ばされ死亡した。
隣にいたエルフが魔法を放ちながら離脱を試みたが、それを全てその身に受けながらも近づくアルゴスを止められず、一人目と同じように潰された。
聖剣に続き、エルフたちの全滅という絶望的な状況の中、即座に声を上げる者が一人。
「魔術師は散開して逃げろ! まだやる気のある奴は俺に続け、聖剣を確保するぞ!」
傭兵団「鋼鉄の斧」の団長の肩書は伊達ではない。
こんな状況であるにもかかわらず、カインは指示を飛ばして自ら動く。
予備のバトルアックスを片手に中身を飲み干した瓶を投げ捨てアルゴスに向かって歩くカイン。
「あいつ……あんなものまで用意していたのか!」
強力な身体強化薬はその効果こそ絶大だがその代償の大きさ故に使う者はいない。
俺も用意しておきたかったが、金が足りず買うことができなかったことから、その希少性も高い正真正銘の最後の切り札足り得る逸品でもある。
もうカインは戦うことは疎か、真っ当な人生を歩むことができるかどうかもわからなくなった。
だが、そんなカインが走る勢いをそのままに振り下ろした戦斧すら、アルゴスは片手に受け止めた。
そしてそのまま刃ごと握り潰すとカインの両腕が引き千切られた。
アルゴスの手にはバトルアックスを握ったままのカインの両腕がぶら下がっており、それをそのまま振り下ろす。
叩き潰された両腕のないカイン。
俺はまだ聖剣には辿り着かない。
アニーを下がらせたのは失敗だったかもしれない。
それでもカインの稼いだ時間は無駄にしない。
「オーランド!」
手を伸ばす俺にアニーの声が届き、影が見えた。
咄嗟に巨人殺しを振るう。
同時に腕に走る衝撃。
視界に空が映り、地面となり、また空が映った。
自分が転がっていることに気づき、止めようとするも止まらない。
全身の痛みは感覚が鈍っているお陰で耐えられる。
しかし腕が動かない。
(ああ、確かにこれは動かないな)
止まってみれば自分の両腕があらぬ方向に曲がっている。
手から落ちた相棒を探すと、自分のすぐ傍に砕けたグレートソードがあった。
「不壊」の特性を持つ決して壊れぬ大剣が、巨人殺しと名付けられた俺の愛剣が、無残な姿で転がっていた。
(そんな……)
折れたのは剣だけだったのか?
ただ呆然と地面に横たわる俺が声にならない声で呟く。
「団長、早く逃げてください!」
俺とアルゴスの間に立ったロイドが叫ぶ。
いいからお前が逃げろ、と返したくなるが、肉体のダメージを自覚してしまったが故に、肺が空気を求めることを止めてくれず声を出せない。
ドスドスと地面を鳴らし近づくアルゴスに一歩も引かないロイド。
「逃げてくれ」と願えど声は出ず、立ち上がることもできずにただ食いしばり芋虫のように這う。
陸に挙げられた魚のように口をパクパクと動かすばかりで何もできない。
ロイドは逃げてくれなかった。
渾身の一撃は軽く受け止められ、目の前でゆっくりと折り曲げられていくロイドを見せつけられた。
「生きてください、団長」
最も付き合いの長い団員が最後に笑った。
血の泡を吹いて絶命した友に涙を流す暇はなく、屈むアルゴスの背後から誰かが飛び掛かる。
「さっさと逃げろ、何やってんだ!」
アニーが叫び、背後から魔剣を突き立てる。
だがそれに対しての反応は薄かった。
まるで興味が未だ目の前の力任せに折り畳まれたロイドにあるかのように、鬱陶しそうに振り向くことさえせず、尻尾でアニーを高く跳ね上げただけだった。
ゆっくりと宙に回るその姿を見た時、まだ希望はあった。
アルゴスがその口を開き、顔を上げた。
(やめろ、何をする気だ!?)
地面の方向を確認しようと空中で足掻くアニー。
その露出した肌に向け、アルゴスの顔が近づき――食い千切られた。
横っ腹から噛みつかれ、肉も骨も嚙み切られて血を撒き散らしながら地面に落ちるアニーの姿を目の当たりにした。
ゴリゴリと骨を噛み砕く音が、おかしくなったはずの耳に響く。
地面に落ちて動かなくなったアニーを俺は呆然と見ていた。
どう見ても致命傷であり、すぐに完全回復薬でも使わない限り助からない。
だが無情にも周囲にポーションを持って駆け付けることができる者はおらず、死の間際に動いた口が「逃げて」と俺に語りかける。
「アルゴォォオオオス!」
自分では叫んだつもりだった。
空気が漏れ出るようなかすれた声が虐殺の場と化した戦場の悲鳴にかき消される。
立ち上がろうとするも前のめりに転び、折れた腕を地面に押し付けて這う。
動き出したアルゴスを止められる者など誰もいなかった。
縦横無尽に駆け回り、目につく者を片っ端から殺して回る。
そんな中、一人の若い魔術師が俺に向かって何かを投げた。
「それが最後です! 老師は間に合いませんでした! あなただけで――」
俺の目の前に布で包まれた物が落ちるのと同じくして、青年の上半身が肉片となって吹き飛ぶ。
死にかけの俺など目に入らないのか逃げ出す傭兵を優先して殺して回るアルゴス。
折れた両腕と歯で布を開き、三度目となる完全回復薬を喉に流し込む。
その効果はすぐに現れた。
両腕の激痛に合わせ、折れた腕が時間を巻き戻すように正常な形となる。
だが都合の良い変化はそこまでだ。
感覚が鈍くなってなおこの激痛。
それは全身へと広がり、聖剣へと走る俺の視界にも変化が現れる。
(腕が、変形している!? いや、腕だけじゃない!)
左右で足の大きさが異なることに気づき、バランスの取れない体でよたよたと走る。
肥大化と変形を繰り返す体の変化で俺は足をもつれさせ盛大に転んだ。
聖剣は目の前だと言うのに、何故この手は届かないのか?
そう思い伸ばした手が聖剣の柄に触れる。
異形となったこの身は、既に辛うじて人型と呼べる程度のもの。
左腕に比べ明らかに長く、太い右腕が聖剣に届いたのだ。
だが喜んだのも束の間、俺の右手が弾かれた。
俺は聖剣に選ばれなかった。
ただその事実が俺の動きを止めた。
殺戮は続いている。
周りから聞こえる悲鳴は何故か鮮明に思える。
打つ手はない――万策尽き、何もできなかった俺がここにいる。
しかしそれが、何だと言うのか?
俺は立ち上がり、再び聖剣を掴み取る。
見えない力に弾かれるが、知ったことかと握り続ける。
徐々に拒絶の力は増し、指の骨が折れる感触が伝わってくるが、お構いなしに聖剣を地面から引き抜くと、柄を握るその左手を肥大化した右手で握り締める。
「俺が、聖剣に相応しくないことなんてわかってる! だが力がいるんだ!」
聖剣がこの異形の手から逃れるように衝撃が大きくなるが、それを抑え込むように俺は自分の手を握り潰すほどに力を加え逃がさない。
「俺の命でもなんでも持っていけ! だから一度でいい! たった一度、お前を振るわせろ!」
これに意味があるとは思っていない。
だがもし、聖剣に意思があると言うのであれば、この命を対価に一度だけのチャンスを願う。
俺の願いが届いたのかどうかはわからないが、突如体から痛みが消えた。
恐らく痛覚がなくなったかしたのだろう。
そして都合の良いことに俺の叫びを聞きつけたアルゴスがこちらに向かってくる。
「ただ一振りは叶う」
直感がそう訴えた。
だから俺は不格好に構え、アルゴスを待ち受けた。
現在進行形で変形している真っただ中の異形だが、どうにか形にはなったと思う。
距離はもうすぐそこ――俺は一歩前へと踏み出す。
「アドゥゴォォォズ!」
今の俺はきっと鏡を見ることもできない面構えなのだろう。
まともに喋ることも叶わくなった喉であらん限りに声を上げ、最後の一撃を振り下ろす。
歪んだ視界が、迫るアルゴスの拳をしっかりと捉えていた。
この剣は果たして届いたのか?
それを知ることができなかったのが心残りだ。
(悪い、お前ら。やっぱダメだったわ)




