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梅雨が来て
夏の始まり
告げる頃
猫の抜け毛の
毛玉が転がる
バイオテックなハザードが起こりそうな光景を前に、俺はどうしたものかと祖国を心の中で問い詰める。
ウゴウゴと蠢くピンクの肉塊が扉の向こうでは絶賛膨張中である。
しかも、室内にある他の被験者を取り込むという行動が俺の選択肢を狭めてくるから始末が悪い。
(ネメシスコードは生きている相手でなければ意味はない。だとすればあの行為自体は別の意味があってか、それともそういう生態なのか?)
現状、俺が確認できた情報からは判断が付きかねる事態である。
有機物なら何でも取り込もうとするならば、アレは間違いなく俺を狙う。
では「アレに勝てるか?」と問われれば……わからない、としか答えようがない。
「大体アレは何なんだ? 何をどうしたらあんな風になるんだよ」
説明されても理解できないだろうが、今は兎に角愚痴りたい。
取り敢えず火が有効らしいのは確認できた。
あからさまに嫌がる素振りを見せてくれたは良いのだが、残念なことに俺の魔力ではもう一発を撃つのは正直苦しい。
多分一時間後くらいならば再使用可能だろうが、現状では五本の指先全てに火を灯すのが精いっぱいと言ったところだろう。
保険として使える手段である以上、万全を期すのであれば魔力が回復するまでは突入するのは控えたいのだが、時間をかけることで状況が悪化する恐れもある。
「どうしたものか」と扉の隙間から様子を窺っていたところ、肉塊の動きがピタリと止まる。
いや、止まっているように見えているだけだ。
天井にまで伸びた膨張し続ける肉塊。
体積の増加が停止したのならば良い。
だが現在進行形で増え続けているならば、その先端は今何処にある?
それは本当に小さな音。
稼働する機械音すら捉えるこの耳に届いた微かな粘着音。
天井ではない。
そこにアレは張り付いてはいない。
いるのはその先だ、と気づいた時には俺はその場から飛び退いていた。
同時に崩れる天井と姿を現したピンクの肉塊。
「無駄にホラー要素追加してくんじゃねぇ!」
そう叫んで着地際に転がってきた天井の破片を掴んで投げつける。
それほど硬い材質ではない故に、効果などないだろうと思っていたのだが、直撃した部分の肉塊が千切れ飛ぶ。
どうやら防御力はない模様。
これは有用な情報を得たと思った矢先、吹き飛ばした部分が速攻で再生した。
(これはあれだ。防御力はないに等しいが、HPが高くて自動回復が付いたやつだ)
RPGで見かけるモンスターに一致する特性である。
しかも最大HPの割合で回復する厄介なタイプと見た俺は、一先ず背後を確認する。
見た目と裏腹に静かに動くこともできるので、聴覚に頼り切るのは少し怖い。
戦闘に意識を割くのではなく、索敵重視に切り替えた俺は退路の確保に動く。
来た道には肉塊が蠢いているが、後ろはまだ大丈夫だ。
接触にはリスクが伴う可能性が高い以上、今は退いて状況を整える。
具体的に言えば燃やせる何かを確保する。
あの肉塊を燃えるゴミにしてやろうと、着火用魔道具をリュックから取り出し、放火の準備は万全だ。
火災警報器等が生きていないことを祈りつつ、通路にあった長椅子のクッション部分に魔道具の先端を押し付ける。
温めていたので煙がすぐに発生し、中の緩衝材にも燃え広がる。
メラメラと揺らめく火を確認し、俺は長椅子を持ち上げ通路を塞ぐ肉塊へと走り出す。
そして燃える長椅子を肉塊に押し付けるように前面に押し出し、それを避けようとしたところに投げ入れる。
だがそれだけでは終わらない。
俺は右手の指先に魔法で火を灯し、それを天井に広がる肉塊に向け突き出した。
「バーニングフィンガー!」
再現技の一つだが、本物は手が真っ赤に燃えており、しかも掴んだ相手が爆発するというものである。
名前負けも甚だしいが、火を嫌って逃げる肉塊には効果は抜群だ。
そんなわけで、俺は無事に肉塊が塞ぐ通路を突破することができ、これでいつでも施設からの脱出が可能となった。
「これで最悪の事態は避けられる」と思っていたら横道からピンク色の波がもりゅっと出現。
壁を破壊したような音は聞こえなかったので、どうやら回り道があった模様。
時間をかけずに突破できたからよしとしよう。
(しかし膨張速度が予想以上だ)
これは早めに施設からの脱出を決断した方が良いかもしれない。
だがやるべきことはやっておく。
火祭り長椅子第二弾を横道に設置し、俺は更に後退する。
凄まじい膨張速度と言っても所詮は肉塊。
俺が歩く速度よりも進むのは遅い。
時間にはまだ余裕がある、と第三弾を探していたところで天井から音が鳴る。
しばしその音に注力すると、それが何であるかがすぐにわかった。
「ダクトか!」
通気口に侵入した肉塊がそこから伸びていると判断した俺は、悠長にしている時間などなかったと走り出す。
少し遅れて崩れる天井からピンクの肉滝が現れた。
やはりと言うべきか、俺を狙っているのは確定のようだ。
取り敢えず走りながら通路に設置された長椅子をキャッチ――そして着火、アンドリリース。
床を滑る焚き火が肉塊をこじ開けトンネルを作った。
その光景を見ていた俺は明らかにおかしな点を発見する。
(通路が肉塊で埋め尽くされているわけではない?)
そう、見えたトンネルの先は肉塊のない通路だったのだ。
つまり肉塊は俺が思ったよりも体積が増加していないか、はたまた追ってきている量が目の前の分だけ、ということになる。
情報が増えるとこの脳みそでは処理が追い付かないのが如何ともし難い。
取り敢えず現状は火を使っての迎撃だ。
魔法が打ち止めとなった今、手にした火つけ棒が頼みである。
肉塊と距離を取り、狭い通路に近くの部屋から燃えそうなものを片っ端から集めていく。
天井板を破壊し、両手の指には魔道具。
燃料をまだまだかき集めておきたいところだが――ピンク色の蠢く肉の壁がそこまで来ている。
俺は二本の指で摘まんだ棒を集めた燃料の中に突っ込んだ。
煙と共に焦げ臭い臭いが辺りに漂い始め、肉塊の動きが目に見えて鈍る。
そこに燃えた布を被せた金属の塊を投げつける。
熱に強いからこそできる力業に肉塊も回避ができず、火の玉がピンクの壁に直撃する。
その結果は想像以上だった。
何せ肉塊の粘膜と思しきにちゃにちゃは油のようなものだったらしく、瞬く間に肉塊が炎に包まれたのだ。
のたうち回る肉塊が壁や床に体を叩きつけて消火を試みているが、その成果はないに等しくビッタンビッタンと無様な音を打ち立てている。
「はは、最初に見つけた弱点がここまで効くか」
安堵の息を漏らしながら呟いたところで燃え盛る肉塊が動かなくなり、炎が小さくなるのに合わせてとその体積を失っていく。
だが安心はまだできない。
この肉塊は一部に過ぎないのだ。
本体を倒し、食らうという目標に手がかかったことを確信した俺は、燃えそうな物をさらに物色。
後半戦に向けての準備を整える。
問題があるとすれば、こいつが脂塗れだということだ。
脂身の塊に齧り付けというのだから少々食後が怖い。
アルコールをしみ込ませた布をプラスチック製の棒に巻き付ける。
いつでも着火ができるようにもう片方の手には魔道具を持ち、リュックには予備を幾つか取り付ける。
単純に殴って倒せる相手だった可能性もあるが、有効な手段を発見したのであれば、そちらを優先するのが文明人。
さあ、決着を付けに行こう。
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最後の方の松明の予備数が複数とわかるよう修正しました。




