おまけ
底冷えのする牢の中は、齢五十を超えたローワンには堪える厳しさだ。それでも、粗末ながらベッドがあり、床に直接座らずに済むだけ、ありがたいと思う。
どこかで鐘が鳴った。
牢に入れられてから初めて聞こえた外の音に、思わず耳を澄ませる。
すると、かすかに足音がした。鐘の音は、おそらく地下牢への扉が開き、その隙間から聞こえたものだろう。
「やあ、宰相殿。ここは冷えるだろう」
「これは宰相様。どうしたのですか」
現れたのは、アウリラの宰相、ティム・ウォーカだった。
彼は、手にしていたカップをこちらに差し出してくる。
鼻先に漂う香りですぐに分かった。ホットワインだ。スパイスの匂いよりも、その湯気の温もりにひかれて思わず手に取る。
「安心するがいい、何も入ってはいない」
毒杯を与えるつもりで持ってきたわけではないらしい。
「……むしろ、入っていてほしいものです」
そう言えば、彼は小さく笑った。
「そうだろうな。これからのことを思えば、一瞬で死ねるほうが幸せかもしれない」
ローワンは、準備が整い次第、アウリラの鉱山に送られる。そこで、二十年の労働刑に服するのだ。
期限が設けられ、期待を持たせているようだが、この老体が二十年ももつはずがない。
「肉体労働をしたことは?」
「ありません。しかし、不可能ではないでしょう」
働くことが罰になるのは、肉体的な労役そのものよりも、平民を使っていた立場から転落する屈辱が耐えられないためだ。
しかし、ローワンはもう、誇りなど失ってしまった。輝かしい過去の日々は、信じて従っていた王の、無様な命乞いを見た瞬間に消えたのだ。
「働くうちに体は鍛えられる。なに、要領をつかむのは得意なのです。
役立たずというほどの立場にはなりますまい」
ローワンは、カップを両手で包み、小さく息を吐いた。
「お前は全てを失う」
「ええ。貴族であった恩恵も、義務も」
「それが平民になるのだという意識ならば、思い違いをしているぞ」
ローワンは驚いた。確かに、平民の生活に墜ちるのだ、という意識があった。
格式の高いローブをまとい、胸に宰相である徴を留めた男は、すくいあげるようにこちらを見た。
「平民は働く。朝から晩まで働く。食べ物に事欠くこともあり、寒さに凍えることもある。
しかし――同時に、彼らには繋がりがある」
つながり、と思わずたどたどしく呟く。
「労働が終われば家に帰り、家族とともに飯を食い、酒を飲んで語り合う。床に就き、目が覚めれば、新しい朝だ。近所の者と挨拶をし、愚痴を言い合い、また新しい日を始める」
ティムの言葉は、忘れようとしていた妻と子のことを無理やりに思い出させた。
敗戦直前に離縁をし、実家に帰らせたが、新政権下で貴族籍を認められるとは思えない。血縁者ともども、平民として暮らすことになるだろう。
まさに、目の前の思慮深い顔つきの男が語った通りに。
しかし、彼が語ったのは、ローワンの家族に思いをはせたからではない。
ローワン自身の未来のことだ。
「私は」
情けなくも声が震える。
「どのように暮らすのでしょうか」
「お前は罪人だ。ここと同じ、鍵のかかる狭い部屋に入ることになる。誰とも口を利かず働き、最低限の飯を食い、寝る。それだけだ」
ああ、それは確かに罰だ。ローワンは自分の未来を初めて絶望と共に思い描く。
「自らの運命を嘆くか?」
ティムの問いに答えるには、長い時間が必要だった。
「それが運命ならば。それならば、私は、嘆いたのでしょう」
カップの中のワインは、徐々に冷めていく。
「しかしこれは、運命ではない。私には、この未来を避ける術を知っていた」
機会は二度あった。
一度目は、あの哀れな末の王女を、どことも知れない国に嫁がせると王が告げた時。
そして、全ての教育を拒否されてなお、その決定を覆そうとしなかった時。
心の内にある、正しき者の声に応えなかったのは自分だ。だからこれは運命ではない。
実に正しく、己への罰なのだ。
「ところで」
内面に沈み込みそうになったが、ティムの声に引き戻される。
「ウエンディ王女殿下が、王に直訴された」
「はあ……なんと」
「こうだ。『ねえ見て、この記録のここ、ローワンって、ダリア姉様をとっ捕まえて送りつけようとしたんだ! やるじゃん!』」
「や、やややるじゃん……?」
「もちろん、シリル殿下が、そのお言葉を適切に変えて王に届けた」
それは良かった。
「お前の刑は、10年に減刑される」
息をのんだ。
「さて。10年か。お前は62歳になる。過酷な労働の末に生きていられる、ぎりぎりの年といえよう」
「……いけません、それは。それは……ウエンディ様がおひとりで過ごした時間より短いではありませんか……」
ティムは、ローワンのカップを受け取ると、立ち上がって背を向けた。
「お前の主君はもういない。以後、どう生きるかはお前次第だ」
彼が去り、一瞬だけまた、鐘の音が聞こえた。
ローワンは知った。
それが、かつて戴いた王への、鎮魂の鐘なのだと。




