その12
――ワーズワース伯爵家の不祥事が明るみになってから数週間が経過していた。
パーシヴァルとエドガー王太子殿下の計らいにより、審議の翌日には主に高位貴族に対してワーズワース伯爵家姉妹の入れ替わりの事実が公表され、それは社交界を震撼させるほどの話題となった。
同時に明らかにされたワーズワース伯爵と夫人による虚偽や詐称についても速やかに情報は国内に行き渡り、マーガレットのもとには交流のあるなしに関わらず貴族からの手紙がしばらく後を絶たなかった。
それでも想像よりも遥かに反発や悪意ある風評が少なかったのは、偏にパーシヴァルの采配によるものだろう。
彼は実家であるストラウド侯爵家の力はもちろんのこと王太子殿下とのコネクションを活用して、マーガレットの汚名を雪ぐことに尽力してくれている。
当然ながらマーガレットも名誉回復のために積極的に社交場へと足を運んだ。さらにヘイマー公爵夫人を筆頭に、理解を示してくれた貴族の方々を頼ることも躊躇わなかった。
そう遠くない未来、ストラウド侯爵夫人として生きることを考えた時に、入れ替わりの過去を掘り返される瞬間は必ず来るだろう。その際に周囲を味方に付けられるだけの印象を社交界全体に与えておく必要があったのだ。
なおマーガレットがある意味で一番懸念していたジュリアの男性関係については、思わぬ味方の出現により早期解決の兆しとなった。
――誰あろう、審議の場にも居たムーア子爵家の令息トーマスである。
実際にマーガレットに扮したジュリアと男女関係にあった彼が「自分が付き合っていた女の中身は本当のマーガレット嬢ではなく、あばずれのジュリアだった」と触れ回ったことで、話に信ぴょう性が増したのだ。
そこにパーシヴァルによる徹底的なガードが加わり、本物のマーガレットに対して言い寄ってくる男性はついぞ現れなかった。まだしばらく警戒は必要だが、そもそも未婚貴族女性と軽率に肉体関係を持つような男たちである。今後のことも考えると面倒ごとは避けたいところだろう。
ちなみに審議の日から数日後、マーガレットはトーマス本人から丁寧な謝罪の手紙を貰っていた。
あの夜会でのことを思うと未だに背筋が凍る想いだが、トーマスが純粋にマーガレットの皮を被ったジュリアを愛していたのは疑うべくもない。そして、中身が別人であったと理解した時から、本物のマーガレットに対して謝罪の念を覚える程度には、彼は真っ当な青年だったということなのだろう。
無論、こちらの名誉回復に助力することでストラウド侯爵家に少しでも恩を売っておきたいという見方もあるが……マーガレットとしては、審議の場で見せた彼の悲痛な面持ちや意気消沈した様子は本心からのものだったと信じている。
そんな風に周囲にも恵まれ、マーガレットを毒婦と表立って呼ぶ者はいなくなった。
しかし当然ながら完全に汚名返上出来たわけではない。
陰では好き勝手な妄言を並べる者も存在するし、当面の間は社交界で話題にされ続けることは避けられないだろう。
けれど、悲観する気持ちはない。
むしろマーガレットは貴族女性としてようやく正式なスタートラインに立てたのだ。
ここから先は本当の自分で勝負することが出来る。今はそれだけで十分だった。
ストラウドの屋敷で働く使用人たちにも改めて説明と謝罪をした。
その流れでメイドのメグとして使用人に交って仕事をしていたことも打ち明けた結果、一番仲良くしてくれたローナを平身低頭させてしまったことが一番つらかったかもしれない。
そんなローナを筆頭に最初こそ使用人たちも動揺は隠しきれていなかったが、一週間も経てば皆、マーガレットの姿にも慣れてくれた。この辺りは流石侯爵家の使用人といったところだろう。
そんなこんなでマーガレットは固有魔法である【変身】をほぼ使うことがなくなった。
――そして。
マーガレットがパーシヴァルのもとに嫁いでから、遂に半年が経った。
今日も夕食を仲良く食べた後、マーガレットはパーシヴァルと共に夫婦の寝室へとやってくる。
この日課もすっかり生活の一部になっている。そんな時間の経過が、マーガレットには愛おしく思える。
いつものように軽い軽食と飲み物を前に並んでソファーに座ると、その日は珍しくパーシヴァルが真剣な面持ちを作った。彼はマーガレットの左手をそっと握ると、瞳を覗き込むようにして話を切り出す。
「……ワーズワース伯爵と夫人に対する正式な処分が決まったよ」
「そう、ですか……内容を、お聞きしても?」
「うん。と言っても概ね予想通りだけど」
曰く、実父であるワーズワース伯爵は当主罷免と貴族籍抹消に加えて、平民の身分として隣国との国境に面した辺鄙な村での強制奉仕による肉体労働を十五年ほど申し渡されたとのこと。
義母ジェシカも平民落ちの上、伯爵とは正式に離縁。そして伯爵が送られた地からは反対側の国境沿いの村での奉仕活動を言い渡されたようだ。期限は伯爵よりも長く二十年ほどらしい。
当然ながら貴族として生きてきた彼らには過酷な環境な上に、慣れない肉体労働で心身ともに削られることは避けられないだろう。
安易に処刑や追放などといった処分となるより、彼らにとっては辛い日々が待ち受けているに違いない。それでも、真面目に刑期を終えれば平民として生き直すことも可能だ。
「ちなみに伯爵からマーガレットに伝言があるんだが……聞きたいか?」
「お聞かせいただけるのならば」
迷いなく答えれば、パーシヴァルがほんの少しだけ苦く笑う。
「二度とお前の前には姿を現さないことを誓う。ジェシカのことも責任をもって監視するから心配はいらない。赦しを乞える立場にはないので謝罪はしない。私のことは忘れろ――だそうだ」
マーガレットはなんとなく想像していたので、パーシヴァルと同じく苦笑を浮かべた。
ワーズワース伯爵は酷く不器用な人間だったのだろう。母ホリーとの関係が拗れた原因の一端が、今の言葉からも窺い知れる。当然ながら彼から受けた仕打ちをなかったことにはしないし、母にしたことも赦す気はない。
それでも、もし彼が刑期を無事に終えることが出来たならば――
(一度くらい、ゆっくりと話をする機会があってもいいのかもしれない)
恨んだり憎んだりすることが苦手なマーガレットは、素直にそう思った。
パーシヴァルには甘いと言われるかもしれないけれど。
「そういえば、ジュリア様も遂に修道院に入られたのですよね?」
「ああ、流石に針の筵覚悟で社交界に出入り出来るほど図太くはなかったようだな。それに加えてワーズワース伯爵家――今は降爵して子爵家だが、そこでの風当たりにも耐えられなかったんだろう」
ワーズワース伯爵家は当主による犯罪が明るみになったことで降爵処分となった。
現在はワーズワースの分家筋に当たる家の嫡男が新たな当主の座についている。彼は罪を犯した三人に対して非常に憤っており、ジュリアをワーズワースの恥として国内で最も厳しいとされる修道院に生涯幽閉することを決めた。
ジュリアは最後まで激しく抵抗したようだが、誰も助けてくれない状況になす術などなかった。
「新たな当主とは一度面会したが、生真面目そうな青年だったよ。特に嘘を吐くようなこともなかったし、彼が主導するならワーズワースは大丈夫だと思う」
「そうですか……良かった」
ホッと胸を撫で下ろしたマーガレットの白金の髪をパーシヴァルが柔らかく梳く。
その手つきだけで大事にされていることが伝わってきて、マーガレットは思わず頬をほんのりと染めた。そんなこちらの様子にさらに目を細めたパーシヴァルが、耳元で甘く囁く。
「……なぁ、マーガレット。今日が何の日か分かるか?」
「っ……! ――はい、今日は」
貴方と結婚してから、ちょうど半年です――と、マーガレットは小さな声で答えた。
それは同時に、初夜の際に交わした約束の期日でもあった。
自分でも熱っぽい表情になっていることが分かった上で、マーガレットはパーシヴァルを見上げる。
美しいサファイアの瞳に射抜かれた瞬間、心臓がドクドクと速い鼓動を刻み始めた。
再び重ねられた左手をぎゅっと握り込まれる。そのまま下りてきた唇を受け入れれば、最初は軽く、だがすぐに深いものへと変化していく。
何度か繰り返したキスの合間に、パーシヴァルが熱い吐息を漏らしながら訊いた。
「……愛してる、マーガレット。あの日の初夜をやり直したい。改めて、俺のものになってくれるか……?」
「――……はい、喜んで」
その返事に心底嬉しそうに破顔した青年は、ソファーからマーガレットを優しく抱き上げるとベッドへと移動する。彼がマーガレットをベッドに下ろすと、そのままガウンを脱がせ始めた。
と、その時、
「……あっ」
マーガレットがムードを無視したような色気のない声を上げた。
何事かとパーシヴァルの手の動きも止まり、若干気まずい雰囲気が寝室を流れる。
「……あの、マーガレット? 何か問題あった……?」
常になく不安そうな声を出すパーシヴァルに、マーガレットは急いで首を大きく横へ振る。
「ち、違うんです! あの……明かりを消して貰ったほうが良いかなって……」
「明かりを? ……今もそんなに明るくはないと思うけど――」
パーシヴァルが言うようにムードを損ねるような明るさではない。が、室内は柔らかなオレンジの照明によって視界がある程度は確保されている。ただ消してしまえばほぼ真っ暗になるため、パーシヴァルはやや難色を示した。それを察したマーガレットは、迷った末におずおずと上半身を起こす。
そしてくるりとパーシヴァルに背中を向けると、おもむろに着ていたガウンを脱いだ。
さらにその下に着ていた夜着もシーツの上に落とせば当然、マーガレットの素肌が晒されることになるが――刹那、パーシヴァルの息を呑む音が聞こえた。
「っ……!? それ、は……」
マーガレットは背を向けたまま顔だけ振り返って、少し泣きそうな気持のまま笑顔を作った。
「ごめんなさい……背中が一番、傷痕が残っているんです。いつもは固有魔法で隠してるんですけど……パーシヴァル様には、隠せないんだっていまさらになって気づきました」
もっと早くに思い至るべきだったと後悔する。
身体の傷跡は貴族令嬢にとっては文字通りの瑕疵だ。幸いにして顔や比較的目につきやすい箇所には痕になるような暴力は少なかったが、代わりに背中やお腹の辺りには痛々しい鞭の痕や痣などがハッキリと残っている。
自分でも鏡で確認しているが相当に醜い痕なのだ。だから着替えの際には常に固有魔法で綺麗な肌を偽装している。それは今現在も変わらない。屋敷のメイド達ですらマーガレットの傷痕のことは知らないのである。
こういうところも含めて自分の固有魔法は非常に便利なものだと、マーガレットは正しく理解している。でも、肝心な時に、肝心な人の前では役に立たない――それが、少しだけやるせなかった。
依然として黙ったままのパーシヴァルに、マーガレットは焦りを覚える。もしかしたら、こんな傷のある女性を男性は抱く気にはならないのではないか。そんな不安から、祈るような気持ちでマーガレットは再び口を開く。
「あの……このような醜い肌をお見せするのは心苦しいので、夜の際には照明を――……ひゃっ!?!?」
マーガレットは堪らず悲鳴を上げた。それは突然、背後からパーシヴァルに強く抱きすくめられたからだ。伝わってくる彼の体温に驚いたのも束の間、マーガレットは肩に感じた違和感に目を見開いた。
「パーシヴァル様……泣いて、いるのですか……?」
素肌に当たる生温かい雫の感触に困惑しながら問えば、彼は腕に込める力をより強くした。
顔はマーガレットの肩口に伏せたまま、
「――マーガレット」
パーシヴァルはまるで懇願するような声で、言った。
「もう絶対に君を傷つけさせたりしない……だから、俺には絶対に隠さないでくれ。この傷も決して醜くなんかない。君は俺が知る限りでもっとも美しくて……大切な人なんだ。君の全てを愛している……マーガレット――」
こっちを向いて、と耳元で囁かれるのに導かれて。
相対した青い瞳に自分の泣き顔が映るのをぼんやりと理解しながら。
「俺のもとへ来てくれて――妻になってくれて、ありがとう。一生大事にするから……」
その奇跡みたいな幸福を前に、マーガレットは自ら手を伸ばしてパーシヴァルを正面から抱きしめる。
直後に背中を優しく労わるように撫でられて、その心地よさと安堵感にまたひとつ、涙が零れた。
「――愛しています、パーシヴァル様……本当の私を見つけてくれて、ありがとう……」
孤独と共に生き、偽りに塗れた哀れなマーガレットという少女はもう、この世界のどこにもいない。
そうしてマーガレット・ワーズワースは――否、マーガレット・ストラウドは。
心から愛する人と、心も身体も結ばれる幸せな夜を経験したのだった。




