愛しているから、離れなければならない
ヘイマー公爵家でのお茶会から数週間後。
「……じゃあ、行ってくるよ」
「はい。行ってらっしゃいませ、パーシヴァル様」
それは結婚当初から当たり前にあった朝の一幕。
仕事へ向かう夫パーシヴァルを妻であるマーガレットが玄関ホールで見送る。ただそれだけの日課。
そこに新たな儀式が加わったのは――あのお茶会の次の日からだった。
「……ん」
顔を下げて軽く目を閉じるパーシヴァルの頬に、マーガレットが唇を寄せる。
時間にしたらほんの数秒程度の接触。けれど何度繰り返しても恥ずかしくて一向に慣れる気配はない。
マーガレットが唇を離すと交代して今度はパーシヴァルからの口づけを頬に受ける。
緊張から微かに震えるこちらを落ち着かせるように、最後には決まって彼がマーガレットの頤を柔く撫でるところまでが一連の流れとなっていた。
『……これからは、もう少しスキンシップを増やしていこうか』
馬車での宣言通り、パーシヴァルと過ごす日々に加わった新しい日課。
朝の見送りとお休みの挨拶の際には必ずキスをすること。ちなみに朝は頬、夜は唇にである。
この行為はマーガレットに恋しい人と触れ合うことの喜びを否応なく教え込む結果となった。
名残惜しそうに離れていく唇の感触に釣られて目をそっと開ければ、至近距離のパーシヴァルが甘やかに微笑んでいた。最近、この行為の後に彼は必ずこういう表情をしてくる。とても幸せそうだと感じるのは、きっとマーガレットがそうであって欲しいと心の中で願っているからに違いない。
「あー……仕事行きたくないな」
ポツリと落とされる愚痴に思わずクスクスと笑いながら、マーガレットは目を細めてパーシヴァルを仰いだ。
「今日は遅くなりそうなのですか?」
「いや? たとえ忙しくても夕食までには必ず戻るよ。君を一人で食事させるのは嫌だからね」
「ふふっ……では、お夕食はパーシヴァル様の好きなものをご用意してお待ちしておりますね?」
マーガレットがそう言えば、パーシヴァルは苦笑しながらも今度こそ屋敷を出て行った。
直前にマーガレットの額に唇を落とすサービスまでして。
「……まったく、最近の旦那様は聞き分けのない子供のようですね」
いつの間にか背後に控えていたグレアムの呆れ声に、マーガレットは自然と頬が赤くなるのを感じる。
当然ながら朝の見送りの際には屋敷の使用人の目もある。だから毎回スキンシップを見られていると思うと、恥ずかしさで居たたまれなくなってしまうのだ。
(貴族としては、こんなの当たり前だって分かってはいるんだけど……)
恥ずかしいものはやはり恥ずかしい。
それを誤魔化すように、マーガレットは一呼吸置くとグレアムへ話し掛けた。
「グレアム、今日のお夕食はパーシヴァル様の好物を――」
「承知しておりますよ、奥様。ですが旦那様は自身の好物が並ぶよりも、奥様好みの料理がテーブルに並ぶ方がおそらく喜ぶので、その辺りは料理長と相談いたしますね?」
グレアムの確信に満ちた言葉に、マーガレットは「……お任せします」と返すので精一杯だった。
そんな精神的に疲れるやりとりを経て自室に戻ると、今日届いた書簡がテーブルの上に置かれていた。
その中の一通に目を留めたマーガレットは急いで封を切る。
手紙の差出人はギブニー伯爵令嬢だった。
あのお茶会での騒動から正式に謝罪を受けた後、彼女とは定期的に手紙をやり取りしている。
まるで憑き物が落ちたように明るく前向きになったギブニー伯爵令嬢は、今まで社交界では年長の女性とばかり交流していたマーガレットにとって、貴重な同年代の友人にまでなっていた。
そんな彼女からの手紙に目を通せば、内容は再来週に催される王家主催の夜会に関する事柄だった。
家族と共に参加するので是非ご挨拶させて欲しいという主旨自体はもちろん問題ない。
それよりもマーガレットを悩ませているのは、自分として今度の夜会にも参加するであろうジュリアの存在であった。
(彼女とジュリア様が鉢合わせないように気をつけないと……)
そう考えながらマーガレットは数日前に届いた父ワーズワース伯爵からの手紙の内容を反芻する。
お茶会以降パーシヴァルとの仲を噂で聞いたのか、夜の営みについて頻繁に訊ねてくるようになった父にマーガレットは堪らず溜息を吐いてしまう。
パーシヴァルとはまだ床を伴にはしていない。
なんとなく最初に決めた期限である半年という節目にそうなるのかなと、マーガレット自身は思っていた。しかしその期限まで――
(あと二ヶ月もない……)
マーガレットはぎゅっと胸元を押さえる。このところ初夜を終えてジュリアと入れ替わることを考えると、決まって胸の奥に激しい痛みとやるせなさを感じてしまう。
それはきっと、マーガレット自身がパーシヴァルへの恋愛感情を自覚してしまったから。
彼が妹と結婚生活を送るという避けられない現実に心が押し潰されそうになる。
あの優しい手も、甘やかな瞳も、安らぎをくれる声も。
本来であればマーガレットが受けられるものではない。あれは最初からジュリアのものなのだ。
頭では分かっているのに、どうしようもなく苦しくて。
この感情の名前が嫉妬であることをマーガレットは既に理解している。
(……もう、このお屋敷でメイドとして働くなんて夢を見るのも難しいわ)
妹と触れ合うパーシヴァルの傍に居れば辛くなるのは目に見えている。
流石に耐えられる自信もない。そこまで強くはなれない。
(やっぱり別人として一人で生きていくことが私にとっては最良の選択……)
何があっても、もうワーズワース伯爵家には戻らない。あそこは正真正銘の地獄だから。
そのことに気づけただけでも、きっとマーガレットは幸運だったのだ。
(半年間だけの、まるで夢のような結婚生活……きっとこの先、今以上に幸せを感じることはない)
パーシヴァルを愛している。きっと彼以上に好きになれる人なんていないだろう。
だからこそ、彼に相応しくない自分がその隣に立つことなど決して赦されはしない。
偽りから始まったこの関係を終わらせる時は、もうすぐそこまで迫っている。
――パタリ。
不意にマーガレットの瞳から涙が零れ落ち、手紙の文字を滲ませた。
恋を自覚してからというもの、感情のコントロールが上手く出来なくなってしまった。
涙を流すなんて母が死んでからほとんどなかったのに。自分はこんなにも弱くなってしまったのだ。
(本当に……私は、どうしようもないなぁ……っ)
とめどなく溢れてくるそれを咄嗟に拭いながら、マーガレットはしばらくの間、自分を慰めるように静かに顔を両手で覆った。




