バレンタインデー:其の十
「行ってください!」
叫んだ蜜柑さんはどう見ても泣きそうで、俺はこのまま自分だけここを飛び出していいのか迷う。けれど、俺がここにいたところで蜜柑さんの力にはなれないことは何となく理解していた。だから、ここは素直にその強がりを呑み込むことにする。
縺れる足を懸命に動かして、小屋を飛び出す。
扉のすぐ横に立っていた人影に気づいたとき、危うく転ぶところだった。
そいつは、向けられた俺の視線を真っ向から受け止め、口を開いた。
「いいから行け。お前じゃ無理なんだよ」
手厳しいその言葉も、今は優しさだって分かる。蜜柑さんの怒りも、俺を思ってのことだったから。
千鶴だって、我を忘れてはいたけれど、きっと俺のためだったんだ。
それを理解しないで、怒鳴り返して、逃げ出して。俺はやっぱり、最低だ。けど、だけど。それでも、逃げちゃダメだ。逃げ出したら、何にも解決しないんだって、たった数十秒の勇気が出せればそれでいいんだって、傷つけたら、謝ればいいんだって、教えてくれたから。あれだけ自分を傷つけながら、そう教えてくれた蜜柑さんのために、俺はいかないと。行って、自分の願いを、想いを、叶えないと。
「うわあああああああ――――――!」
悲痛な絶叫に顔を歪めながらも、足は止めない。
クリスマスに怒鳴ってくれた良樹のために、今叱ってくれた蜜柑さんのために、その優しさに報いるためには、きっと俺が解決するしかないから。俺が大人になるしかないから。
――――――私が好きになった人はあんなにいい人なんだって、自慢くらいさせてくださいよ!
分かった。言わせてみせる。きっと、必ず。蜜柑さんが好きになってよかったって、そう思わせて見せるから。その時は、ちゃんと謝って、お礼を言わせてくれ。
雪を掻き分け、鳥居の下を駆け抜ける。ここから高校まで二キロ半ほど、走れない距離じゃない。けど、かなり辛いだろう。
だから、どうした。
怖気づく心に鞭打って、地面を蹴る。雪のせいで滑りやすくなっているが、別に通れないわけじゃない。
ここから高校までの最短ルートを思い描きながら、小さな路地に飛び込んだ。
小屋の中に入ってくる足音がして、蜜柑は両手の間から顔を上げた。絶叫し、滂沱し、今顔は酷いことになっているだろうが、そんなところまで気を回す余裕は無かった。
「……よう」
朝陽より少し高い身長、短めに刈り込まれた髪、がっしりとした体。けれど、顔に浮かんだ表情はいつになく柔らかい。
「……樋口さん」
蜜柑の掠れた呼びかけには答えず、黙って蜜柑の前に胡坐をかく。そして、いたわるように、ねぎらうように、優しく笑った。
大きな掌が蜜柑の頭に載せられ、左右に動く。誰かに頭を撫でられるのは、蜜柑にとって数年ぶりの感覚だった。嬉しいような、くすぐったいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちが湧き出てくる。
「……お疲れさん。頑張ったな。辛かったな」
その言葉は蜜柑に向けられたものであると同時に、良樹自身に言い聞かせるような響きも含んでいた。
「……全部……聞いてたんですか……?」
そうだとすれば、恥ずかしいことこの上ない。焦りに焦って飛び込んだ挙句、朝陽のためを思わせた、理不尽な要求をぶつけただけなのだから。
否定して欲しい、そんな蜜柑の願いも虚しく、良樹は照れくさそうに頭を頭を掻いた。
「ああ。悪いな。商店街のところであったとき、あまりにも様子が変だったからさ。これは何かあったと思って、後をつけたんだよ。そしたら、ここに行き着いた。たぶん、全部聞いてたんだと思うぞ」
「……そう……ですか……」
良樹の顔を直視できず、俯く。
そんな蜜柑に対して、良樹はもう一度口を開いた。
「辛いよな。アドバイスしたら自分の恋は成就しなくなるって分かってるのに、そういうことするのは。そういうときってさ、大体、ちゃんとしたアドバイスと、自分が傷つかないために相手に押し付けるものの二つがあって、後者の方が力が入っちゃうんだよな」
まるで、全部分かったかのような、見透かしたかのような口ぶりに、蜜柑の中で、理不尽な怒りが燃える。
気づけば、口を突いて出て行っていた。
「樋口さんに、何が解るんですか……!」
「解るぞ」
力強く即答され、蜜柑の中の怒りは急速に萎んでいく。虚を突かれて、黙り込んでしまった。頭の上から、静かな声が降ってくる。
「オレだって、同じようなことやったからな。オレ、クリスマスに安倍に告白して、振られたんだよ」
息を呑む。そんな相手に向かって、なんてことを言ったのか。
自己嫌悪に陥る蜜柑を、頭を軽く叩くことで我に返らせた良樹は、寂しそうな声音で、話を続けた。
「その後、朝陽が出てきて、『自分には好きになる資格がない』とかぬかしたから、頭にきてさ、怒鳴りつけて、突き飛ばして、頭突きしちまった。でも、言ってることはアドバイスなんだよな。だから、辛い。オレは、恋敵の手助けしたんだから」
状況は違えど、蜜柑と同じようなことをしていた。
だからこそ、さっきのねぎらいは蜜柑の心に届いたのだろう。
「あのときあんなことを言わなかったら、オレにもまだチャンスがあったかも、なんて時々思うよ。けど、言ってよかったとも思う。あいつは、オレの親友だから」
きっと、それは苦しかったのだろう。恋敵と親友の二つに板挟みにされ、真逆の感情が混在する内心を押し隠して生活するのは。
「だから、綾野もそういう風に思うと思うけどさ、そんときは、オレに吐き出せばいいから。お前は良くやったよ。オレにできないことをやってくれた。あいつの背中を押すのは、オレの力じゃ足りなかったみたいだからさ。だから、ありがとう。それと、お疲れさん」
まだ右手は痛い。叫び疲れて喉も痛い。止め処なく溢れる涙で、きっと目も腫れている。
けれど、優しく頭を撫でるこの温もりがあるから、気分はいっそ清々しいくらいだった。大丈夫だと思えた。
涙は止まらないけれど、いつかは止まるときが来る。
その時は、あの二人のことを、笑って見ていられるだろうか。
そうなればいいと、心から思った。




