バレンタインデー:其の七
校門を出て、商店街の方へとひたすら走る。蜜柑の中に溜め込まれたなけなしの知識を総動員して、朝陽の行方を推理しながら。
雪で足元が覚束ないが、そんなものは関係ない。近道だと教わった路地を駆け抜けて、まずは商店街を目指す。
朝陽は家出中だから、おそらく商店街の付近には近づかない。夏休みに同じようなことが起きたときは、誰もいない静かな場所でぼんやり座ってたという。なら、今回も同じような行動を取るだろう。そして、この付近で静かなところ。勝手に足が向くようなところ。
そこまで絞り込んだのはいいが、蜜柑はこの地区にあまり詳しくない。案内無しで行けるのは、初詣の神社と、商店街と、良樹の家、それから神原駅までの道のりくらいだ。もしも朝陽が、蜜柑の知らないような場所に行ってしまっていた場合、見つけられる可能性はゼロに近くなる。かと言って、千鶴や真澄に今頼むのは、朝陽にとって辛いだろう。真澄にはさっき告白され、千鶴とは喧嘩中だ。
絶望的な考えに、思わず足を止める。同時に、今までの疲労が一挙に押し寄せてきて、蜜柑は膝に手を突いた。荒い呼吸を繰り返しているため、断続的に視界が白くなる。
左右を見渡せば、商店街が斜め前に見える。どうやら、必死のあまり、二キロ近く走ったらしい。胸骨の辺りの痛みも、そう考えると頷ける。
けれど、いつまでも苦しがってはいられない。蜜柑の苦しみが肉体的なものなら、朝陽が今感じている苦しみは精神的なもの。どっちが辛いのかなんて、考えなくてもわかる。だから、だから。
止まってなんて、いられない。
上半身を支えていた手を離して、二度、三度呼吸を整える。何度か爪先を地面に当てて調整し、足に力を込めた。
「あれ、綾野? 何してんだ?」
不意に背後から響いてきた声に、危うく転びかける。飛び出した勢いを次の足で殺して、蜜柑は振り返った。
「樋口さん」
「おう、どうしたんだ綾野、お前の家、こっち側じゃないだろ?」
どうやら自主トレーニング中だったらしい良樹は、真っ白な吐息を吐き出しながら、蜜柑の横に並んだ。
風圧で乱れた髪に、体からの熱で曇った眼鏡。相変わらず荒い呼吸を繰り返すその姿は、おそらく良樹の目には異様な光景として映ったのだろう。少しだけ眉を顰め、身を乗り出した。
「お前、何が……」
「樋口さん、朝陽さん見ませんでしたか?」
良樹の言葉を遮るようにして、その問いを口に出す。普段の蜜柑ならまずやらないようなことだが、今はそんなことを気にしていられる余裕など、持ち合わせていなかった。
幸いにして、蜜柑のそんな態度に、良樹は何も言わなかった。
「朝陽? ……ああ、さっき神原神社の方で見たぞ。境内の方に入っていったな」
神原神社。それなら、蜜柑も道を知っている。
一番の不安要素が消えたところで、蜜柑はいても立ってもいられなくなった。
「ありがとうございます! それじゃあ!」
それだけ言い残すと、もう一度走り出す。四肢には倦怠感が纏わりついていて、口の中はカラカラだ。頭も締め付けられるように痛い。
けど、止まりたくはなかった。
「あ、おい綾野!」
呼びかける良樹の声を背中で聞きながら、蜜柑は商店街の東口を通り過ぎた。
「ね、千鶴ちゃん。あさひは蜜柑ちゃんが連れてくるから、その間に少しだけ話をしよっか」
清水先輩に諭された後、私自身は納得したけれど、それでも、一度決壊した涙腺は、今まで数年間溜め込んだ分を吐き出すように涙を流し続け、結局、私が心身共に落ち着いたのは、それから十分以上の時間が経った後だった。
「千鶴ちゃん、ごめんね、アタシ、謝らなきゃなんないんだ」
「……何を、ですか……?」
ようやく立ち上がって、膝の雪を払う。とは言え、長い間膝をついていたから、既にびしょびしょで意味なんてほとんどない行為だけど、一応格好だけでも。
正面から相対した清水先輩は、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せて、苦笑した。
「千鶴ちゃんを落ちつかせるために、嘘をついたことだよ」
「……嘘、ですか」
「うん、確かに千鶴ちゃんは大人っぽいし、事実大人なんだと思う。けどね、あさひの言うことをそっくりそのまま受け入れることが、一から十まで認めてあげる事が、大人なわけじゃないんだよ。確かに、認めてあげなきゃダメ。解ってあげなきゃダメ。それを怠ったから、アタシも、あさひの両親も失敗した。けどね、だからと言って間違ってることまで認めちゃったら、それは理解者じゃなくて、ただの操り人形、言いなりの下僕じゃん」
今までの私の考え方に、修正を迫るような言葉たちが、清水先輩の目から、私の頭に響く。実際は空気の振動が鼓膜を震わせ、それが聴覚神経を伝って脳に届いているだけだけれど、真剣そのもの、一生懸命なその瞳から、直接伝わってきているような、そんな気分になった。
「認めるべき部分と、間違いを告げる部分、その違い、私は朝陽と一緒に、考えるつもりです。何が間違ってるか、正しいのか。私は大人になりたかったけど、朝陽の親になりたいわけじゃないですから」
だから、私もその目を真っ直ぐに見つめて答える。
私がなりたいのは、理解者であって保護者じゃない。護ってあげたいとは思うけど、それはあくまで同年代の範疇であって、幼児や赤ちゃんに対するものとは決定的に違うんだ、と。
「一緒に歩いて、一緒に考えて、お互い納得できる答えを探します」
少しどころではなく、青臭いかもしれないけれど。大人を目指した自分からすれば、真っ先に切り捨てるべき考えかもしれないけれど。
今は、それでもいいと思えてくるから、不思議ね。
「うん、その意気! じゃあ、アタシはもう行くね」
「ありがとう、ございました」
深く、腰を折る。
顔を上げたとき、清水先輩の姿はなかった。
――――――羨ましーな、ホントに。
去り際に、清水先輩が呟いた言葉が、耳に残っている。それがどんな意味を持つのかまでは、計り知れない。けど、今は、それを考えている場合じゃない。
まずは、朝陽を追いかけないと。言いたいことがいっぱいあるから。
そこまで考えて初めて、メールが来ていたことに気づいた。
『私が朝陽さんを屋上まで連れて行きます。千鶴ちゃんは、待っててください』
蜜柑にそんな役目を押し付けるのは気が引けるけど、今更私がどうにかなるものでもないから、ここは、好意に甘えることにしようかしら。
少しひしゃげた小箱を抱えて、階段室の敷居をまたいだ。




