バレンタインデー:其の六
私が口を閉じたとき、誰も何も言わなかった。私は少し落ち着いたけれど、自分が犯した過ちを思い出して、涙の量は増えていくばかり。
「そっかー。目の前で好きな人が幼馴染に告白された挙句、『大切』だって言われて、我を忘れちゃったかー」
私の動機を端的に表したその言葉に、呼吸が喉に詰まる。そんな私の態度なんてどこ吹く風、どこか諭すような声で、清水先輩は話しだした。
「……でも、それだけじゃーないよね?」
少しだけ静かな、少しだけ大人じみた声で紡がれた言葉に、はっとして顔を上げる。
清水先輩を見上げる。その瞳に視線が合った途端、私は反射的に顔を背けていた。
その目に、心のうちまで見透かされそうな、そんな気がしたから。
けど、これは、それだけは、私がひた隠しにしてきたそれだけは、例え見透かされていたとしても、言えない。
「蜜柑ちゃん、走ってどっか行っちゃったから、遠慮なく話していいよ? アタシ、口は堅い方だし」
さっきは痛かった優しさが、今は体中に染み透っていく。
そうよ、どうせ私は、自分の醜悪さも、馬鹿さ加減も、全部曝け出した後じゃない。今更、一つや二つ増えたくらいで、どうなるものでもないじゃない。
そんな、半ば自棄のような思考を経て、大きく息を吐く。
「……私は――――――」
浅く、短い呼吸を繰り返す。何度も、何度も。足を前に出して、腕を振って。後方へ流れていく景色に意味はない。蜜柑の中で今、意味があるのは、朝陽の行方だけだ。
「あれ、綾野じゃん、そんな急いで、どーかしたの?」
「あ、はい、えと、朝陽さん、知りませんか?」
渡り廊下で鉢合わせたクラスメイトに、目撃情報を募る。応えは、色好かった。
「あ、八神? それならさっき、すごい勢いで校門から出てったけど」
「あ、ありがとうございます!」
目の前が暗くなりそうなほどの衝撃の中、辛うじて礼を搾り出し、下駄箱へと駆ける。
――――――こんなのは間違ってる。
このまま二人が決別してしまうのは。
――――――あの二人は、傍から見てもお似合いだから。
だからこそ、蜜柑は身を引いたのだ。自分では、朝陽を振り向かせることなどできないから。それを悟ったから。自分の想いは朝陽に対しても、千鶴に対しても重荷でしかないと気づいてしまったから。
だから、二人がこのまま、話に聞く両親や小夜子のように、疎遠になって、会話もなくて、辛く苦しい過去の一つになってしまうのは。
――――――アタシはさ、純粋にあさひのことが好きだったんだよ。けど、どんどん会うのが辛くなって、今はもう、できれば思い出したくないほどになっちゃってる。
だから、あの二人には、同じようになって欲しくない。
どこか寂しげに、苦しげに、悔しげに、そう呟いた小夜子の顔は、目に焼きついている。苦しそうだった。どうにもならないことをどうにかしようとして、もがいているような。そんな、痛々しさ。
蜜柑は千鶴から話を聞いただけで、当事者でもなければ目撃者でもないけれど。
どうにもならなくなる前に、どうにかしたくて。どうにかして欲しくて。
校門を飛び出した。
「私は――――大人になりたかったのよ……!」
私が押し殺したように叫んだその言葉に、清水先輩は片眉を上げた。
「大人になりたかった? それは、どういうこと?」
さっきは見透かしたような事を言った清水先輩も、そこまではわかってなかったみたい。全てを見透かされていたわけではないことにほっとしつつ、私は胸中に渦巻くそれらを整理する。
「私が、小四で引っ越したのは知ってますよね」
清水先輩が頷く。それなら、話はもっと簡単になる。
「引っ越した後、母も働き出して、両親ともに帰ってくるのが遅くなって。元々父は忙しい人でしたから、私は母と二人での生活に慣れてはいたんです」
けど、お母さんもお父さんと一緒に遅くまで働くことになって、私と二人は生活サイクルが合わなくなった。朝は私が起きる前に家を出て、夜は私が寝た後に帰ってくる。私が両親の姿を見られるのは、一時間以上早起きしたとき、玄関から出て行く後ろ姿か、二時間以上夜更かしして、帰ってくるのを待っているか。
私が家族と過ごせるのは、お盆かお正月か、ゴールデンウィークの中で一日、くらいになった。
だからと言って冷たくなるわけでもなく、休みの日は目一杯構ってくれて、遊んでくれたけど、日常生活の中に家族がいないというのは、小学生には厳しいものだったのよ。それは両親も解っていたから、過剰なほど気を使ってくれた。先述の休みの時はもちろん、少しでも会話の時間があれば、どこで何をしていても、電話をしてきてくれるほどに。
それが、苦しかった。
嬉しかったし、楽しかったけど、それと同じくらい、苦しくて、申し訳なかった。いつかの夜中、たまたま目が覚めたときに、見てしまったから。疲れた顔の両親が、ぐったりと椅子に座っているのを。
そのとき、私は子供心に誓った。両親には、できる限り負担をかけないようにしようって。自分でできることは、自分でやろうって。――――――『大人』になろうって。
自分は一人で大丈夫だから、お父さんもお母さんも、気を使わないで仕事に打ち込んでって。夜寝る前の電話も、しなくて大丈夫って。そう言った。
そして、その言葉通り、朝も夜も、中学に入ってからはお昼も、自分で作った。朝ご飯は夜のうちに準備して、両親が食べていけるように。夕飯も全員分作って、掃除もして。二ヶ月もすれば、家事と呼ばれるほとんどの事は、できるようになった。
友達と遊ぶ時間を減らして、買い物に行って、ご飯を作って、掃除と洗濯もして。
でも、子供がそう言うことをしているのは、両親が留守がちだとアピールするようなものだった。訪問販売やら宗教の勧誘やらが徐々に増えていき、一度は私がいるのに泥棒が来た事もある。それらが、近所の人にも、両親にも迷惑をかけるようになった。
「痛感したんです。どれだけ頑張っても、自分は子供なんだって」
私が子供だから、そこを狙って質の悪い輩が押し寄せる。それは、両親の負担を増やすことに他ならない。泥棒のときに一度、訪問販売や勧誘を見かねた近所の人が二度、警察を呼んだこともある。そのたびに両親は飛んできて、警官や通報者に礼をいい、私の頭を撫でて慰め、心配した。
だから私は、行動だけじゃなく、自分の振る舞いをも、変えようとした。
一人称を「私」に、男勝りで子供っぽかった口調を今のように変えて、飾っていたぬいぐるみやらおもちゃやらもしまいこんで、キャラクター物の文房具も片付けた。装身具や衣服も大人しいものを選ぶようにして、児童文庫や教育漫画は文房具と一緒に押入れに詰め込んだ。
幸いと言うべきか、六年生になる頃には身長は百五十八センチ近くまであった上、顔も大人びていたから、身につけるものを少し大人びた物にしただけで、子供だと甘く見た訪問販売や宗教はぐんと減った。周囲が心配する事も減って、やっと私は『大人』になれた。
「そう、思っていたんです」
両親は相変わらず子ども扱いだけど、それだって控えめになったから。
そして、神原に戻ってきて。朝陽の『事情』を知って、頼られて。同居を始めて。
義務感から始めて鍛えられた家事能力も、自分を殺して創った新しい性格も、朝陽の役に立てているのなら、続けた甲斐があったと、自分は大人になれていると、思っていたのに。
でも、それは今日、崩れてしまった。
「私は、朝陽のことを受け入れて、認めて、解ってあげて、支えてあげるべきなのに! 私は、あたしは……!」
混乱が口調にも伝播し、六年間続けてきた一人称が崩れる。それすら気にならないほど、私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。様々な感情が縺れ、溶け合い、それぞれの表情が目まぐるしく入れ替わる。
「どうして、あんな事を言ってしまったのか、あたしにはわからないんです……! 少し考えれば、真澄ちゃんの想いも、朝陽の考えも、否定して、跳ね除けて、より深く傷つけるだけだって、解るはずなのに! 感情のままに喚き散らして、よりにもよって朝陽たちを傷つけて……そんなの、そんなの――――――!」
今までの分、息を吸い込む。冷気が気管支から入り込み、肺や鼻を刺し貫く。その痛みはあたしへの断罪のようで、心地よかった。
「――――――あの頃と、何にも変わってないじゃない!!」
今まであたしは何のために頑張ってきたの。何のために無理やり笑ってきたの。何のために『寂しい』の一言を飲み込んだの!?
全部、無意味になったじゃない。あたしは何にも変わってない。変えようとした、変えたかった部分は、何も。上っ面だけ、仮面でごまかしただけ。そんなの、『大人』じゃない。
それが悔しい。朝陽の役に立てるはずの自分が幻だったことが、辛い。朝陽の隣にいる資格を全て失ってしまったのが、苦しい。
「……それが分かってるだけ、大人じゃん」
ぽつりと、頭上から降ってきた呟き。それは、清水先輩の声。
「大人になりたかったんだよね? じゃあ、僭越ながらアタシが答えるよ。千鶴ちゃんは、紛うことなき大人だよ。両親に心配かけないように頑張ろうと思えるのも、あさひの事を解ってあげられたのも、千鶴ちゃんが大人だったから。子供の頃と同じ失敗だって理解して、後悔できるのもそう。ちゃんと考えて、自分で判断して、周りの事も気にかけて、それでも、自分がやりたいことをできてるじゃん? だから、千鶴ちゃんは大人」
「でもあたしは、一番間違えちゃダメな事を間違えたんです」
「間違えないのが大人じゃないよ。間違えても、その後謝って、訂正できるのが大人。千鶴ちゃんは、どう?」
小さく、だけどはっきりと頷く。朝陽に、謝らなきゃ。




