バレンタインデー:其の五
走り去る朝陽の後ろ姿が、夏休みの姿と被る。けれど、あの時とは違って追いかけようとは思えなかった。あるのは、真逆の方向へ逃げ出したいという、忌避と罪悪の感情だけ。
これ以上この教室に佇んでいるのが耐えられなくなって、私も駆け出した。
どこをどう走ったのかは分からない。
右手に持った小箱が少しだけ歪む感覚で、私は我に返った。冷たい風と、真っ白な雪と藍色の空。ブレザーの下にカーディガンを着込んでいるとは言え、あまり長居をしたいとはいえない場所。
東棟の屋上に、私は辿りついていた。
肩で息をしながら、周囲を見回す。私の視界の中には誰もいない。そもそも、真冬に屋上へ出るなんて、酔狂な事をする人間はそう多くは無いのかしらね。
時折そよぐ風の冷たさで、少しずつ頭が冷え、思考が整頓されていく。乱れた息のまま深呼吸を始め、無理やり完遂する。
まだ、心臓はうるさいほど高鳴っている。それはきっと全力疾走のせいじゃなくて、朝陽との喧嘩のせいだけど。
――――――見損なった。最低だろ。
――――――俺はお前を信じてたのに。
何度も、何度も、頭の中で朝陽の声が反響する。繰り返し、私を苛む。いつの間にか、落ち着かせたはずの呼吸が荒くなり、体中に力が入る。
もう一度、小箱が歪んだ。
どうしてあんな事を言ったのか、私はまだ解っていない。朝陽が悩んでいる事も、混乱している事も、私が口を出すべきではないことも解っていたのに。
――――――真澄は大切だから、傷つけたくないんだ。
けれど、自分の中で、引き金になった言葉だけは解っている。
真澄ちゃんは、朝陽にとって大切。なら、私はどうなの? ……そんなことを、考えてしまったから。真澄ちゃんと同様に、私も大切だと、傷つけたくないと思ってくれているのか、不安になってしまったから。
だから、真澄ちゃんに嫉妬した。朝陽に八つ当たりした。
どうしようもなく、自分が嫌になる。醜悪で、卑屈な、自分が。
謝ろうにも、私の中にはまだ、朝陽に腹を立てている自分がいる。あんな風に怒らなくてもいいじゃない、と。
だから、私は何もできない。自分の中に嫌な奴がいることが許せなくて。そんなものを抱えたまま、どの面提げて朝陽に会えるというの。
右手で握り締めた小箱が、三度、歪む。
それに視線を落とす。端整込めたラッピングは見る影も無くひしゃげ、この分では中のチョコレートも無事じゃ済まないわね。
渡せなかった。渡したかった。本来なら、今頃、目標を達成して、清々しさと不安の中に浸っていられたはずなのに。
どうしてあんなに突っかかってしまったの。見なかったふりをして、自分の用件を済ませてしまえばよかったのに。
朝陽に、あんな事をさせてまで。私は、朝陽を認めてあげなきゃならないのに。朝陽の支えにならなきゃならないのに。
私が、朝陽を傷つけてどうするのよ。
どうしようもない激情が頭の中を駆け巡り、私の思考をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。
やるせなさが醜悪さが吐き気が、私の中で渦を巻き、絡み合い、溶け合って、混沌と化す。この状況になってしまった以上、何ができるかわからない。何をすべきかわからない。わからない事だらけで、それを理由に動けない私に、自己嫌悪が加速していく。
――――――俺の信頼なんてぶち壊しても、平気でいられるみたいだからな!
混沌と化した感情が、突沸する。瞬間的に跳ね上がった温度は頭の中を白く焼き焦がし、噛み締めた奥歯が嫌な音を立てた。
手の中の小箱が忌まわしい物に思えてきて、思いっきり振り上げる。
叩きつけたい。壊したい。粉々にして、目も当てられないようにして、かけた努力を、込めた想いを、伝えたかった言葉を、無に帰したい。
思いっきり振り上げた右手に力を込めて、足元の地面に狙いを定める。
真っ白な意識の中に浮かぶ衝動に従って、腕を振り下ろす――――――
「千鶴ちゃん?」
たわんだ腕が、こめかみの横で止まった。
油の切れたロボットのように人間味のない動きで背後、声のした方を振り返る。
そこにいたのは、蜜柑だった。
運動部の有志によって綺麗に雪かきされた屋上の上、階段室の影から顔を覗かせた蜜柑は、私の格好と表情に、眉を顰める。
「千鶴ちゃん、どうかしたんですか?」
「え、千鶴ちゃんいるの?」
蜜柑の疑問に被せるように、聞き覚えのある声がする。
同じように顔を覗かせたのは、清水先輩だった。
「わ、千鶴ちゃんじゃーん。久し振りかな?」
「……清水先輩……蜜柑……」
今まで怒りに向かっていた混沌が、悲しみに毛色を変える。一瞬にして塗り替えられた感情は、留まるところを知らずに膨張し、ついには私の中の許容量を超える。
視界が大きく歪む。水中で目を開けたときのように、階段室も、蜜柑の姿も、視界の中の何もかもが定形を失い、不規則に歪む。
「え、あ、千鶴ちゃん!? ほんとにどうしたんですか!?」
慌てたような声で駆け寄ってくる蜜柑と清水先輩も、顔はおろか姿形さえはっきりしない。もはや、どちらがどちらかすら判別不可能ね。
両頬を、一筋何かが流れていく感覚。一滴の間隔が徐々に短くなっていき、ついには一つの流れと化す。
堪えきれない呻き声が喉の奥から迸って、雪に溶け込んでいく。耐えられなくなって膝を突いたけど、雪のおかげでそんなに痛みはなかった。その代わり、刺すような冷たさが足を這い登ってくる。
それすら意識の外に押しのけて、両手で顔を覆う。覆って、泣いて、だからどうってわけじゃないけれど、それでも、吐き出したかった。
「千鶴ちゃん、話したくないならそれでもいーけどさ、泣くほど辛いなら、話してみたら? ちょっとは楽になるかもよ?」
清水先輩の優しい言葉が、痛い。
けれど、それに縋ってしまう。断罪してくれる可能性に溺れて、それを求めてしまう。私は、弱い。
声は上擦って、まともに話すこともできないのに、私は口を開いた。
私の醜く、汚い失敗を伝えるために。




