バレンタインデー:其の四
「あさ兄ちゃんが誰を好きでも、わたしはあさ兄ちゃんが好きだよ」
断続的な話をそう締め括って、真澄は俯いた。
どう返したら良いのかわからない。何を言うべきなのかも解らない。何か言って良いのかすら、俺には判断できなかった。
「……え……その……」
へどもどとした態度は心底情けなかったが、それ以外に取りようがなかった。思えば、小夜子のときもこんな感じだった気がする。
「うん、返事はまた今度でいいよ。じゃあね、あさ兄ちゃん。あたし、今日は部活休むから」
一息にそれだけ言い残し真澄が教室から出て行く。パタパタと足音が遠ざかり、聞こえなくなるまで、俺はそこを動くことができなかった。
「朝陽」
不意に背後から掛けられた声に、大げさに驚いてみせる。真剣だった真澄は気づかなかったようだが、俺は少し前に階段を上ってきて、教室の横で途絶えた足音に気づいていたから。
まさか、それが千鶴だとは思っていなかったけれど。
腰の後ろに両手を回して、ゆっくりと歩み寄ってくるのは、紛れもなく千鶴だった。
「趣味が悪いな」
開口一番、飛び出していったのはそんな言葉。言葉にすればいつもの軽口。けれど、俺の声音は冷たくて、硬かった。どうしてそんな風になってしまったのか。きっと、真澄のことでまだ整理がついていないからだろう。
案の定、そんな言葉をぶつけられた千鶴は、少なからず戸惑ったようだった。
「……その点については申し訳ないと思ってるわ。朝陽を探してたら、話してるのが見えちゃったのよ」
「そっか」
まだ、頭の中がぐちゃぐちゃしてる。真澄に言われた言葉が反響して、反芻されて、もう、千鶴との会話だって上の空と言っても良いくらいなのだ。
「それで、聞いてもいいかしら?」
「何をだ?」
「真澄ちゃんの事、どうするつもり?」
……ああ、それか。
「それで、聞いてもいいかしら?」
言ってしまってから、これは私が踏み込むべきではない、干渉してはいけない問題なんじゃないかと思い直す。
「何をだ?」
けれど、朝陽の問いにその考えは揺らぎ、崩れ、代わりが台頭してくる。
吐き気がするほど醜くて、けれど私の中心に居座る物。
「真澄ちゃんの事、どうするつもり?」
こんなこと、私が口を出すべきではないのに。これは、朝陽の問題であって、私には関係ないのに。
いくら幼馴染で、同居人で、朝陽の一番近くにいると言ってもあながち過言ではない人間だとしても、踏み込んではいけないはずなのに。
でも、私は聞きたかった。朝陽がどうするのか。知った後どうするかなんて、考えてすらいなかったけど。
背後に隠し持っている小箱を、どうやって朝陽に渡すのか、それすらもまだ考え付いていなかったけれど。
幸い、朝陽は少しだけ態度を軟化させ、私の問いに応えてくれた。
「……正直に言うとさ、どうしていいかわからないんだ」
「当たり前よ。いきなり告白されたんだもの。混乱して当然なのよ」
宥めるように、落ちつかせるように。朝陽の発言を肯定してあげるのは、私の役目だから。一歩大人に、なんて偉そうな事は言わないけれど、せめて、朝陽の心の支えに。
「いや、いきなりじゃないんだ。だって、今日はバレンタインだから。そんな日に人気のない場所に呼び出されるなんて、告白しますって言ってるようなものだろ?」
おどけたようにそう応えた朝陽の顔から、ゆっくりと表情が消えていく。
「……でも、それだけじゃない。俺は、真澄の気持ちを薄々分かってたんだ」
だから、突然の告白じゃないってわけね。
「俺がわからないのはさ、真澄への返事だよ。俺は、真澄をそういう目で見たことはない。けど、真澄は大切だから、傷つけたくないんだ」
私の心の中で、一つ、たがが外れたような、開けちゃいけない鍵が開いてしまったような、そんな気がした。
「……なら、付き合っちゃえばいいじゃない」
気づけば、そんなことを言ってしまっていた。
「なら、付き合っちゃえばいいじゃない」
俯いていた俺は、唐突に聞こえたその言葉に、耳を疑った。
吐き捨てるような口調で飛び出したその言葉は、やけに冷たい衝撃を伴って俺の脳に響いた。
――――付き合っちゃえばいいじゃない?
俺の中で、苛立ちが鎌首をもたげる。ごぽごぽと音を立てて、煮えたぎる何かが上がってくる。
ダメだ。千鶴まで傷つけるわけにはいかない。千鶴に向かってぶつけるわけにはいかない。だって。千鶴は。千鶴が。
――――――でも、さっきの言葉は。さっきの言葉だけは看過できない。
「……ふざけんなよ」
俺の口から、底冷えのする声が漏れ出す。
「何よ」
「なんだよ、『付き合っちゃえば』って」
「その通りの意味じゃない。そういう対象として見たことないだけなら、これからそう見ていけばいい話でしょ?」
「そういうことじゃない」
そういうことじゃないんだ。俺がそう見る見ないとか、そんな話じゃないんだ。
「俺がそういう対象として見るとか見ないとか、そういう話じゃないって言ってんだ!」
「じゃあなんなのよ!」
声を荒げた俺に対抗するように、千鶴も上擦った声で叫ぶ。
「そういう話じゃないって言うなら、なんだって言うのよ! 異性として、女として見れないから付き合えないなんて言うつもりなの!? そんなの、辛過ぎるじゃない!」
違う。俺が言ってるのはそういうことじゃない。
一向に俺の意思を理解しないで叫ぶ千鶴に苛立ちは溜まるばかりで、収拾の目処は立たない。
「そんなことは今言ってねぇ! 俺が言ってンのは、お前の提案は真澄の思いをないがしろにするってことだ!」
言葉尻に被せるようにして叫んだ俺の言葉に、千鶴が虚を突かれたような顔で怯む。
「あいつは! 十年以上溜め込んで、やっと口にしたんだよ! 膝が笑うほど怯えて! 一番知りたいはずの返事を聞かず走り去って! 扉の横のお前にすら気づかないで! 表情も何もかも、昔のままに戻って! それでやっと伝えたんだぞ! あいつは本気なんだよ! だから、だから! 俺だって本気で応えなきゃならないんだ! それを、それをお前は……『付き合っちゃえばいい』? ふざけんなよ!」
「……だったら、どうするのよ!」
逆ギレじみた叫びは、悲痛に上擦っている。
だから、どうした。
「そもそもなんでお前が入ってくるンだよ。これは俺の、俺と真澄の問題だろ。お前が入ってくるようなもんじゃねぇ。いい加減にしろよ!」
「私は、私は……! あなたの助けになればって。困ってるだろうから……! あなたは、人を傷つけるのを極端に避けるから……!」
「ああ。そうだよ。確かに俺はもう、誰も傷つけたくない」
けど、それとこれとは話が別だ。人を一人拒絶するのと同義だから、そこにはどうしたって軋轢が生まれてしまう。それは、仕方のないことで、俺はそれを最小限にしようとはすれ、無くそうだなんて大それたことは思っていない。それを願えば、もっと他の部分で傷つけてしまうかもしれないことくらいは、予想がつくから。
「けど、それだって俺の問題だ。千鶴が入ってくるようなところじゃない」
「だったら、どうするっていうのよ。告白を断るなら、少なからず傷つくじゃない!」
「だからって、好きでもないまま付き合ってどうするんだよ! あいつは本気なんだぞ!? それを、俺がないがしろにしたら、それこそあいつが傷つくだろ……! そもそも、お前はそれでいいのかよ!」
俺は、否定して欲しかった。俺は千鶴が好きだから。俺が誰かと付き合うという事について、少しでもいい、忌避する様子を見せてほしかった。
狡猾で、嫌な質問だ何て、指摘される前から分かっているけれど。
「私がどうこうは関係ないでしょ! あなたがどうするかよ! 私は、あなたと真澄ちゃんに、仲良くしてて欲しいから!」
「そのためには、好きでもないのにくっつけても構わないってか?」
もう一度、低く、冷たい声が出る。
「なんだよそれ。見損なった。最低だろ、そんなの。ふざけんなよ、お前は、そんな奴じゃないと思ってたのに。もう、いいよ。どうとでも言えばいい。俺は、お前を信じてたけど。お前は、俺の信頼なんてぶち壊しても、平気でいられるみたいだからな!」
それだけ吐き出して、俺は床を蹴った。飛びつくように扉を開けて、廊下を疾駆する。
背後で、同じように駆け出す足音が聞こえた気がしたが、そんな物はどうでもいい。
またやった。しかも今度は千鶴相手に。
なにが「見損なった」だ。見損なわれるのも、最低なのも、俺の方じゃないか。
何かが、体の奥から込み上げてくる。吐き気と涙を懸命に堪えながら、俺は校門を飛び出した。




