バレンタインデー:其の三
「それじゃあ蜜柑、私は先に行くわよ?」
「は、はい。私は、人と会う約束があるので少し遅れると言っておいてください」
蜜柑との会話を切り上げて、鞄を肩にかける。残り四つになった小さな袋が並ぶ紙袋の中、鎮座する小箱。これを渡さない限り、私は今日、どれだけのことを成し遂げようが無意味になってしまうから。
渡り廊下を通り過ぎて、部室の扉をノックする。返事を待たずに引き開けて、少しだけ落胆した気分を隠した。
「おう、今日は一人なのか?」
「ええ。蜜柑は、人と会うとかで少し遅れるそうです。朝陽は、私も探してるんですけど」
「ん? 同じクラスだろ?」
「ええ。けど、さっさと教室からいなくなってしまって」
部室にいたのは、天野先輩と小笠原先輩の二人だけだった。
私の視線に込められた意味を汲み取ったのか、天野先輩はおどけたように肩を竦めた。
「どうやら、うちの部員は皆モテるらしくてな、俺たち以外、誰も来てないぞ」
「そうですか……少し探してみます。あ、これ、お二人の分です」
鞄をいつもの席に置くついでに、二人に小袋を手渡す。
「お、悪いな」
「あら、ありがとう。私からのは、皆が揃ってから大皿で出すつもりなの。少し待ってくれる?」
「ええ。楽しみにしてます」
ここでの用は終わった。後は、朝陽を探すだけ。
今日、朝陽に何か用事はなかったはずだから、いないのならば、誰かに呼び出されたと考えるのが妥当かしら。そして、今日の日付をかんがみれば、おそらく可能性は、女子生徒、が妥当かしら。そして、その内容も、告白であることが予想できるわね。
告白するとすれば、よほどの事が無い限り人気の無いところよね。でも、この校内で人気の無いところなんて、ほとんど無い。定番の校舎裏は体育館の入口から丸見え。体育館裏は、雪が深くて立ち入り禁止だし。
校内の地図を、頭の中に思い浮かべる。
あるじゃない、人気の無い、絶好の告白スポットが。
渡り廊下方面へ進みかけていた足を引っ込め、踵を返す。校舎の左端にある階段めがけて、走り出した。
真澄が体の前に持ち上げた事で、小箱がくっきりと俺の視界に映る。
ピンクを基調とした包装紙に包まれ、丁寧にリボンをかけてある。けれど、包み方がどこか不恰好なのは、真澄の手製だからか。
「あ、ありがとな」
流れる沈黙に耐え切れず、そんな言葉を搾り出す。
「でも、それを渡すだけなら、教室でも、部室でもいいんじゃないか?」
張り詰めた空気をごまかすようにへらへらと笑って、そんな言葉を吐き出す。ここに呼ばれた意味も、真澄がまとう雰囲気の意味も、手の中のチョコが良樹に渡していた物より豪勢である意味も、俺は薄々感じていると言うのに。
不恰好なのは俺の方じゃないか。
けど、真澄は俺のそんな言葉に小さく口元を歪めて、首を横に振った。
「ううん、教室でも、部室でも、ダメなんだ」
真澄の目を見ていられなくて、視線を斜め下に動かす。
真澄の膝が、小さく震えている。それは目を凝らさないと分からないほど微弱なものだけれど、何となく、目に付いた。
真澄は、怖がっている。
なら、俺はきちんとそれを受け止めないと。俺は、お兄ちゃんだから。
「あさ兄ちゃん」
一歩近づいてきて、胸元に抱えていた小箱を差し出す。
「はい、これ」
「ありがとう」
そこから話題をつなげるべきかどうか迷っている間に、真澄が先手を打つ。
「それね、義理じゃないよ。ううん、今まであさ兄ちゃんにあげてきたチョコは、全部――――義理じゃないんだよ」
「……!」
「ごめんね、ずっと嘘ついてて」
分かってた。解ってたんだ。俺は、ずっと前から。俺の分が、周囲に比べて少し大きめだって。包装が綺麗だって。中身も手が込んでるって。それが何を意味するのか、自惚れかもしれないけど解ってたんだ。でも、真澄が何も言ってこないから、俺も気づかないふりでやり過ごしてたんだ。
「……あたしは……」
でも、俺はそれを言う事なんてできない。真澄の決意を壊してしまうから、なんてものは建前で。俺の自惚れが露見するのが嫌で、俺の狡猾さが露呈するのが嫌だから。
「わたしは、あさ兄ちゃんが好きだよ」
左端の階段を四階まで駆け上って、乱れた息を整える。
すぐ隣の、多目的室の中を覗いて、私はすぐに顔を引っ込めた。
薄暗がりの中で向かい合う、朝陽と真澄ちゃんの姿が判別できたから。二人の間に流れる雰囲気で、光景の中身を想像できてしまう。
「……わたしは、あさ兄ちゃんが好きだよ」
ドクン、と心臓が一際大きく跳ねる。それは、一番聞きたくなかった。自分勝手なのは重々承知しているけれど、言ってほしくなかった。
この後、私が言ってしまえば、朝陽にとって、最悪の二択を迫ってしまうから。幼馴染二人、朝陽にとって一も二もなく大切なはずの二人を、どちらか選ばなきゃならないから。どちらかを傷つけなきゃならないから。
だからと言って乱入するなんてできるはずもなくて、私は、扉の横の壁で、息を殺した。
「いきなりでごめんね。でも、言わなきゃって思ったの。あさ兄ちゃんの気持ちはわかんないけど……でも、でもね。あさ兄ちゃんが誰を好きでも、わたしはあさ兄ちゃんが好きだよ」
体が固まったように、動けない。本来なら逃げ出して、何食わぬ顔をしているべきなのに。盗み聞きなんて趣味の悪いことはしたくないのに。
私の足は、意に反して固まったまま。私の呼吸は、抑えられたまま。
教室内の会話が、否が応でも耳に入ってくる。
それは嫌なことのはずなのに、いつしか私は聞き入っていた。




