芽吹いた決意
ふと気づけば時計の針は二周していて、時刻は午後八時。意識されない時間はこんなに短いのかという驚きを、俺は誰に伝えることも無く、コンロの残り火を眺めていた。そろそろ時間だろうか。皆肉を口に運ぶよりも言葉を吐き出すほうに集中しているし、さっきから肉は頼んでいない。残った肉も良樹が思い出したように食べるくらいだ。
「えーっと、じゃあ、そろそろ解散で良いですかー?」
そんなことを思い始めた矢先の、この言葉。全員同じ様なことを思っていたようで、のろのろと立ち上がった。
クラスメイトが形作る列の最後尾に、千鶴と並ぶ。会計を済ませて、店の外に出た。
「あー、結構、空気淀んでたんだなー」
「そうだな、まあ、あの人数だし、肉も焼いてたし、そんなものだろ」
店の外はもう夜の帳が下りていて、ネオンとヘッドライトが周囲を照らしている。店内では空気の淀みなんて気にも留めていなかったが、こうして外の空気を吸うとそれを実感するな。そして、周囲の暗さも。
「えー、打ち上げはここで解散となります。一応の軽快として、各自、特に女子は必ず複数で帰宅すること! では解散!」
礼によって、幹事である女子学級委員が指示を行い、本格的に解散となる。三々五々散らばって行くクラスメイトを眺めていると、不意に視界を良樹の顔が占めた。
「生きてるか?」
「生きてるだろ。俺はお前の顔をドアップで見たくない。せめて二歩下がってくれ」
「なんだ、連れない奴だな」
「逆にこの状況で連れる奴だったらお前は今すぐ逃げた方が良いと思うな。お前がそれを望んでいるんだったら俺が今すぐ逃げるし」
とはいえ二人ともそんなことは望んでいないので、もたれかかっていた柱から体を起こして、綾野と話している千鶴へと足を向ける。良樹はといえばさっさと同じ方向の奴らに合流していた。待たせていたらしい。そんなことまでして何してたんだ。俺と話しに来ただけではないだろうから、千鶴あたりとでも話をしていたのか。
「千鶴、帰ろう」
「ええ。じゃあまた火曜日ね。綾野さん」
「はい。じゃあまた」
会話の中に割り込むのは気が引けたが、意を決して千鶴に声をかける。簡単に挨拶を終えた千鶴が俺に並ぶのを待って、歩き出す。
視界の橋で黒が揺れる。歩みにあわせて、ゆらゆらと。たまに通り過ぎる街灯の灯りを反射して、輝く。真澄はこんなに落ち着いてあるかないから、ここまでゆったりと時間が流れるのは久し振りな気がする。そしてそれは、千鶴とでなければ感じられない感覚だ。
表通りに比べれば人通りも街灯も少ない道を、のんびりと歩いて行く。背景として後ろに飛び去って行くだけだった景色が視界を彩っていることに、微かな違和感と、それを上回る新鮮さが胸を横切って行く。
「……そういえば、あなた携帯持ってるかしら?」
「ああ。千鶴は?」
「高校入学と一緒に買ったわ。忘れてたけど、一応連絡先の交換しておく?」
「そうだな。色々必要になるだろうし」
携帯を取り出して、アドレスを交換する。連絡先の名前を五十音順に並べているため、自動的に千鶴の名前が一番上にくることになる。一覧を開けば最初にその名前が目に入るその事実に、頬の緩みを抑えられなかった。
携帯を操作しては微かに笑みを零す朝陽を見ながら、私も手元のディスプレイに視線を下ろす。初期設定どおりに五十音順に羅列された文字列では『八神』はかなり下へと動かさないと出て来ない。それに少しだけ落胆を感じる自分に苦笑しながら、登録したてのその名前に触れた。
メニューとして開かれた選択肢から一つを選び、文章を綴っていく。とはいえたったの二文字、数十秒で送信が完了した。
数秒のタイムラグを経て、朝陽の携帯が着信を伝える。手元で続きを準備しながらその表情を窺うと、面白いように硬直し、目を見開いて、私の顔を窺ってくる。
達成感と同時にそれとは毛色の違う喜びを感じながら、ネタばらしのメールを送信しようとしたところで、指が止まった。
これを送らずに、誤解したままならどうなるのか、それを考えてしまったから。これを送ればただのイタズラ、送らなければ――――――告白になる。
ちょっとしたイタズラ、どんな反応をするのか見てみたかっただけ。けれど、もしそれを本気で受け取り、そしてもし、同じ様に返してきたとしたら? 私は、どう返すの?
迷いを振り切って、送信の文字に触れる。けれど、刹那の逡巡は私の心に深く根を下ろし、徐々に大きくなりつつあった。
「ん? え? あ、もしかして……」
私が送った二通目を読んで、ようやく騙されたことに気づいたみたい。私の方を恨めしげに見た後、大きく息を吐いた。
「まったく、冗談ならもう少し早めにネタばらししてくれよ」
「ごめんなさいね、ちょっとタイピングに手間取ったのよ」
「ちょっと本気にしかけただろ。びっくりしたぞ」
「あら、びっくりさせたかったのよ」
「まあ、それはそうなんだろうけどさ……」
ため息交じりにそう呟くと、気を取り直して歩き出す。そろそろ私の家も近くなってきていて、この時間が終わってしまうことに少々の寂しさを覚えた。
どこか懐かしい景色が、後方へと過ぎ去って行く。昔はもっと二人駆け回り、飛び跳ねて通っていた道を、並んでゆっくり歩く。けれど、胸に抱えた感情は、少しも変化していない気がした。
それこそが、逡巡の答え。過去と現在、いえ、思い出と今、と言った方が良いかしら。容姿や行動、性格さえ変わってしまったとしても、抱いていた想いは今もまだ、ここにある。たとえ月日を重ねて形を変えても、その本質は変わることなど無いのだから。確かに六年は長かったけど、それが色褪せた思い出になってしまうほどじゃない。何かを本気で思い続ける人の意思は、その程度で折れたりしないから。
「千鶴、着いたぞ」
「あ、ええ。ありがとう、あさ君」
「別に良いさ。俺の家も向こうだし、ちづ一人で帰すほど急いでるわけじゃない」
「じゃあ、また火曜日ね」
「ああ、また火曜日な」
踵を返して歩き猿後ろ姿を見送って、私も家へと入った。
新たに芽吹いた決意を、胸に秘めて。




