当日:其の二
「ただいま」
「おかえりなさい」
世間一般には何気ない、ただの挨拶。けれど、俺にとって、それが返ってくるというのは新鮮かつ幸せな体験だ。
だから、律儀にそれを返してくれる千鶴には感謝している。なんて、気恥ずかしくて面と向かって言うつもりにはならないけど。まあ、それくらいの気持ちってことだ。
「あら、随分色々買ってきたのね」
俺が両手に提げた荷物を見た千鶴の第一声はそれだった。テーブルに置かれた荷物の片方、厚紙でできた箱をしげしげと見つめ、そこに印刷された文字を見て、がばっと顔を上げる。
「これ、シャルルのケーキじゃない!」
期待通りの反応に、口元の緩みを避けられない。子供のように目を輝かせる千鶴に、もったいぶって頷いて、今度こそ笑った。
「そう、河崎駅のとこに新しくできたらしくて、開店セールやってたんだ。丁度クリスマスだし、いいかなって」
「河崎まで行ったのね」
「山内の方だと、真澄に出くわしそうだったからな」
「それもそうね」
何がおかしいのかクスクスと笑う千鶴は、俺がケーキとは別に買ってきた小さめのビニール袋に目を留め、その中身を視線で聞いてきた。
「これはまだ、内緒ってことで」
さりげなく身体の後ろに隠し、ビニール袋は鞄の方へ。
それ以上興味を引かれて細かく追求されては困るから、話題は変更する。あまり、喋り散らすような内容でもないからな。
「で、今日の夕飯は?」
「ちょっと豪華にしてみようと思って。あなたはいつも通り手出し無用よ」
「分かってるって」
俺が居候を始めた時、世話になる礼として、少しでも千鶴の負担を減らすべく、やれることは手伝うを申し出たのだが、当然のように断られてしまった。
まあ、そこで交渉が行われ、風呂や皿など、何かを洗ったり掃除したりというのは俺の担当、調理や布団など、何かを作ったり準備したりというのは千鶴の担当となった。これは、調理の部分を千鶴が頑として譲らなかったためでもある。なんでそこまでこだわるのかはついぞわからなかったが。
とりあえず、調理の過程に手を出すとムッとした顔で睨まれるので、ソファで大人しくテレビを観ている。テレビは暇つぶしに有効だというのは、千鶴の家に厄介になってから気づいたことだ。
徐々に漂い始めるいい匂いに改めて空腹を自覚しながら、俺は買ってきた『あれ』をどう渡そうか、考えをめぐらせた。
「柏木、次は誰のを選ぶんだ?」
「えっとね、次は……ちづちゃんのだね。これで最後だから、ちづちゃんのを買ったらご飯食べようよ」
「安倍先輩か」
なんだかんだと山内駅周辺に密集した店舗をぐるぐると回り、時刻はそろそろ七時を回ろうかと言う頃合。次で最後と言うならば夕食には丁度いい時間になるか。
そんな事を考えながら、楽しげに歩く真澄の隣に寄り添う。既に足が重くなってきているが、そんな事を微塵にも感じさせない真澄に合わせて、栄介も弱音は呑み込んでいた。
「ねえねえ、ちづちゃんへのプレゼントって、何がいいかな!?」
「そうだな……」
千鶴のイメージを、脳内で呼び起こす。あまり積極的な会話は行ったことはないが、四人しかいない先輩の一人だ。普通の部活より濃い付き合いではあるだろう。
「安倍先輩って、髪の毛一つに束ねてるから、ヘアゴムとかシュシュ? とかがいいんじゃないか?」
悩み抜いた末出した答えに、真澄は即答だった。
「うーん、栄介君ハズレー!」
「え、ダメ?」
「うん。着眼点は悪くなかったかもしれないけどねー」
なにやら教育モードに入った真澄に内心驚きつつ、殊勝な生徒としての態度を貫く。
「えっとね、確かに、ちづちゃんと聞いて最初に思い浮かぶのは髪留めだけど、元々不特定多数の目に付くことが多い物はセンスが問われるから、似合うって確信がないと危ないんだよ。それに、今どれだけ似合う髪留めを上げたところで、使ってもらえないと思う」
最後に付け足された意見を言った途端、真澄の顔が曇る。それは、羨望か、悔しさか。
自身の失敗を悟った栄介は、それでも、急に話題を変えることができず、話を続けてしまう。せめて、自分との会話に集中してくれるように。
「栄介君は、十二月の最初の方に、ちづちゃんが新しいバレッタにしたの気づいてた?」
冬前の千鶴と、この間見た千鶴を脳内で見比べる。
「……あ、変わってる?」
確かに、何となく変わっているような気がする。うろ覚えだが、前までは暗めの茶色を基調にしたシンプルなものだったはずだ。それが、十二月を境に、落ち着いた肌色の、花のような形をしたものに変わっている。
「そう。しかも、新しいやつは、どう考えてもちづちゃんが自発的に買うようなものじゃないよね」
もう一度、記憶を呼び戻す。確かに、千鶴の持ち物は、男女兼用と言ってもいいような落ち着いた色や形のものが多い。世間一般に『女の子らしい』と言われるようなものは好んでいなかったはずだ。
なのに、新しいバレッタは見まごう事なき女物。それを心境の変化と言うにはあまりにもその後の行動が変わっていない。
「……確かに。ってことは、誰かに貰ったもの?」
今度は、真澄も同意見らしかった。にっこりと笑った笑みの後ろに何かを隠して、真澄が口を開く。
「それも、たぶんあさ兄ちゃん。その人の好みと少し違うものをあえて選ぶあの選び方は、あさ兄ちゃんが誰かに何かをあげるときの癖だよ」
「……へえ、そうなんだ」
ああ、やっぱり。
栄介の胸中に、そんな思いが芽生える。朝陽の話をする真澄の顔は、普段よりも明るいから。
――――その隙間に、僕の付け入る隙なんてない
咄嗟に、掌に爪を突き立てた。
「いつの間にこんな食材用意してたんだ?」
食卓に並べられたいつもより『少しだけ』豪勢な食事を見て、思わず首を傾げる。対して、千鶴は少しだけ恥ずかしそうな顔だ。
「あなたが出かけた後に、買い物に行ったのよ」
「なるほど」
道理で、俺が知らないわけだ。俺と千鶴の二人で使うには広すぎるはずのテーブルの半分を占拠した料理の出所を。
まあ、量に関しては大したことなく、まあ明日以降に持ち越しても大丈夫なものばかりだ。食べ残しを懸念する必要は無いだろう。が。
「……生活費は?」
「これでも余裕あるわよ。二人分って言いつつ三人分くらい送られてきてるもの」
これには絶句するしかない。安倍家の家計はどうなっているのか、知りたくないが興味が湧いてしまう。
「ほら、いつまでぼんやりしてるのよ。冷めないうちに食べましょ」
どこまでも温かくて、俺を拒絶することなんて万に一つもありえないような言葉たち。それが心地よくて、俺は家に帰る踏ん切りがつかないでいる。これ以上、千鶴の家に居座るのは気が引けるが、だからと言ってあの人たちに頭を下げる気にはならない。まあ、自分勝手な悩みなのだが。
まあ、でももう少しこのままで。
何て思ってしまうのは、俺の悪い癖なのかもしれない。
その姿が目に止まったのは、本当に偶然だった。
色気も何も無いファミリーレストランで夕食を摂り、そろそろ帰ろうと改札を通ったとき。栄介の視界の端で、ふと目に留まった人影があった.
どこかで見覚えがあったわけではない。知り合いに似ているわけでも、芸能人か何かでもない。今日のようなイベントの日ならどこにでもいるような、おしゃれな服の男女。カップル、と言い換えるべきか。
それにしても、目に付く点など何もないというのに。
「……あれ、部長たちじゃないか?」
どこかで見た顔立ち。制服姿を見慣れているが故にわからない容姿。
「確かに、螢一郎先輩と亜子先輩だね」
同じ二人組を認めたらしい真澄が声を上げ、その二人へと駆け出す。
慌てて腕を掴んで止めた栄介を疑問の視線が突き刺したが、それに怯むことなく、栄介は黙って首を横に振った。
「なんで?」
「あそこに割ってはいるのは、野暮だよ」
今日の日付、そして時間。下りてきたと思しきホームの路線。三つを合わせて考えなくたって、答えなんて分かりきっている。
「……あ、そっか」
「僕らも帰ろう」
二人と鉢合わせないように、違うエスカレーターから登る。
二人の姿に自分たちを重ねてみていることに気づき、慌てて頭を振った。




