決別:其の四
「とりあえずお風呂入れるから、ちょっと待ってて」
冷め切った肉じゃがを苦笑いで平らげて、皿洗いを申し出た俺の横を千鶴が通り過ぎていく。台所から直線上に、風呂場が見える。そこに向かったのだろう。
程なくしてシャワーから水が迸る音が響きだし、俺の手元で水道が立てる音と二重奏を奏でる。風呂洗いをするなら、俺がそっちの方がよかったんじゃないかなんて考えは後の祭り。千鶴はすでにすりガラスの向こうへと消えてしまった。
とりあえず手元が狂うと大変なので、泡立った皿に集中する。
くぐもった悲鳴と硬質なものがぶつかり合う音は、聞こえない振りをしておこう。幸い滑っただけのようだし。
『あの、そういう番組じゃないですから』
『あ、そうなの?』
テレビから流れ出すしょうもないバラエティを聞き流しながら、何となく時間を浪費すること二十分ほど。唐突に流れ出した音楽は、風呂が沸いた合図だろうか。
「先に入っていいわよ」
「いや、そうも行かないだろ。俺は後でいい」
「あんな雪の中、ずぶ濡れだったんだもの。風邪引かないうちに入った方がいいわ」
有無を言わせない口調と鋭い視線に俺は早々に白旗を揚げ、渋々と風呂場に向かう。
「洗濯物は洗濯機に入れていいわ」
「わかった」
その道すがら鞄から着替えを取り出し、角を曲がる。
とりあえず服を脱いで、風呂の扉を開けた。
扉の向こうから、微かなリズムが聞こえてくる。音量を絞ったそれは、テレビを消して本を読んでいた私の耳に飛び込んできた。
くぐもって聞き取りにくいけれど、たぶん歌。それも、朝陽が好きなアニメの曲。ひいては私も見ていたアニメの主題歌。スローテンポな切ないメロディと、それにあった歌詞。確か内容は……
「『そんなつもりじゃなかったなんて、今更言っても遅いよね。告げた言葉は取り消せない』」
一瞬息が詰まる。呼吸に失敗した体が反射的に咳き込み、体を折り曲げる。
そんな私の反応が過剰だったように、朝陽は歌い続ける。扉越しでくぐもった声は、それでも十分に聞こえた。
そのすべてが妙に朝陽と私の心情にあっていて、ページはさっきから変わっていない。苦笑いがこみ上げてくるほど、この状況に合った歌ね。それを素知らぬ顔で歌う朝陽の心情が分からないけど……って。
馬鹿みたい。この歌はただ悲しいだけの悲恋じゃない。終盤にがらりと……
「『もう一度、最初から。壊して崩したその上に、新しい花を咲かせよう。次は笑わせて見せるから、僕にもう一度チャンスを下さい』」
クシャリ、と手元で音がする。いつの間にか手に力が入っていて、ハードカバーのページに皺が寄っていた。
慌ててそれを伸ばしながら、体中に入った力を抜く。平然と歌を続ける朝陽の声が、今度は妙に悲しげに響いた。
途端に溢れ出す涙は堪えて、ハードカバーを閉じる。……イタズラでもしようかしら。
階段を上がって、自室の衣装箪笥を漁る。私と朝陽の身長差は大体十センチくらいだから、私が普段着てるのだと、小さいわよね。……そういえば、確か私の適正サイズより一回り大きいパジャマがあったはず。
「……あった」
衣装箪笥の横のクローゼットに仕舞い込まれていたパジャマ。確か、お母さんが間違えたんだったかしら。あんまり詳しくは覚えてないけど。
広げたそれは、好都合なことに朝陽が着て丁度いいくらい。柄もチェックだから、そこまで抵抗は無いはずよ。とはいえ、女物であることは一目で分かるデザインだけど。
それを朝陽が着ている姿を想像して、小さく笑う。きっとぶつぶつ文句を言いながらも、最終的には着るんでしょうね。顔つきは特別女っぽいわけじゃないけど、これを着せて気持ち悪いほどじゃないし、肌も比較的綺麗で髪も長め。うん。許容範囲内じゃないかしら。さすがに、お互い気分が悪くなるようなイタズラは非生産的すぎるもの。
畳み直したそれを抱えて、階段を下りる。
お風呂から朝陽が上がる気配が無いのを確認して、朝陽の着替えとパジャマを交換。そもそも朝陽が用意した着替えは部屋着といえなくも無いけど、材質や形状は外向き。夜に家でゆっくりするための格好じゃないわね。だからこれは、気を利かせたのよ。別にやましい気持ちがあったわけじゃないわ。
緩む頬を必死に押さえて、元の揺り椅子に戻る。さて、どんな反応をしてくれるかしら。
「え? ち、千鶴お前!」
「あら、何かしら?」
「俺の着替えどこやった?」
朝陽が叫んだのは、それから五分くらい後のこと。予想以上にうろたえた様子の声は、その服の意味が分かってるからかしら。
お風呂場に向かう曲がり角に背をつけて、会話する。もどかしけど、ここで私が出て行くわけにもいかないものね。
「あなたの着替え、部屋着には向かないでしょ?それならそのまま寝れるわよ」
「そういう問題じゃないだろ……確かにパジャマの類は持ってこなかったけど、さすがにお前のを借りるわけにはいかないって。俺も一応男なんだよ」
「あら、なりふり構ってられないんじゃない? そのままそこにずっといる気かしら?」
言葉に詰まった朝陽が、むぐぐ、と不思議な声を上げる。そして意を決したように呟いた。
「……分かった、着ればいいんだろ」
「賢いわね」
笑いを必死に押し殺して、衣擦れの音を聞く。
数十秒後、出てきた朝陽は予想外に似合っていた。
「……案外似合ってるじゃない」
「女物が似合うって、嬉しくないんだけど」
真っ赤な顔を背ける朝陽は、不服そうな表情。三十分くらい前まで泣いていたとは思えないくらいいつも通りね。いいことだけど。
「家にいるなら、寝るときはそれを着るといいわ」
「……こっそり家に帰ってパジャマ持ってこようかな」
真剣な形相で呟いた言葉は聞かなかった振りをして、お風呂場に向かう。
堪えきれずに、体を曲げた。
「ふふふふ、あははははははは!」
「笑うなよ!」




