文化祭:其の九
「午後五時三十分になりました。これで文化祭一日目の日程を終了します」
チャイムの後、簡単なアナウンスがなされる。これで、今日は終わりだ。
窓辺まで持って行っていた椅子に腰掛けて、グラウンドのそばを帰路に着く人影を見下ろす。この時間に帰っているということは、運動部か帰宅部だろうか。
「おーい、さっさと打ち合わせして帰るぞ」
がわら先輩と連れ立って螢先輩が現れ、俺たちの注意を集める。話したいことは決まっていたのか、すらすらと話し出した。
「朝陽、売り上げは?」
「六部、ですね」
「結構少ないな。まあ明日があるから大丈夫か。じゃあ、明日のシフトは各自把握してるな?」
全員がばらばらと頷く。
「じゃあ、また明日がんばるぞ。解散」
さっさと切り上げた螢先輩と、傍らから離れなかったがわら先輩がそそくさと部室から出て行く。残された俺たちも、大して多くも無い荷物を纏めて帰宅準備だ。
「あ、あさ兄ちゃん、カラオケいかない?」
「お前な。明日もあるんだから、体力残しておけよ。今日は大人しくしてろ」
部室の鍵を職員室に返し、玄関から外に出る。真澄が口を開いたのは、そんなときだった。
その提案を一蹴しながら、校門を出る。すでに地平線の山々へと姿を半分以上消した太陽が、最後の力を振り絞って雲を紫に変えている。
「じゃあ、また明日な」
「ええ。また明日ね」
東口で千鶴とも別れ、暗澹たる気分に浸る。まあ、そこまででもないが。
とはいえ憂鬱なのは紛れもない事実だ。これから起こるであろう事に思考を向けると、十六歳になった今も、少し泣きそうになる。
「……ただいま」
口の中で、もごもごと呟く。聞いて欲しいのに聞かせたくないなんて、ラブコメじゃないんだから。
もっとも、色気も羞恥も何一つ無いこの状況で、そんな事を想う人間はいないだろうが。
店の奥で何かをしているらしく、居間には誰もいなかった。好都合だけど、残念がっている自分がいる。矛盾を孕んだ二面性に嫌気が差しながら、俺は今朝テーブルに置いていった書き置きを覗き込んだ。
『いってきます。文化祭、少しでも見に来てくれないですか』
高校に入った時から、何かにつけて残し始めた書き置き。あの人たちの目に入っていないことは、何となく分かる。何となく思い立って付けてみた裏のセロテープは、汚れた様子もはがされた様子も無く、紙とテーブルを繋いでいた。
「……なんだよッ……」
予想していたとはいえ、親の視界に自分の事なんて無いんだと言われているような気がしてくる。どうしようもない哀しさが込み上げてきた。
あの人たちは、昼食をいつも必ず居間のテーブルで摂る。そんな場所のど真ん中においてあるA4サイズの紙に、気づかないはずがない。
意図的に、無視されてるんだ。
中三のときに、小夜子に言われて少しずつコミュニケーションを取ろうとしてきた。けど、五年の月日は埋められない溝を掘っていて。未だにあの人たちと目を合わせると萎縮してしまうし、身体に力が入ってしまう。最後に言葉を交わしたあの時、俺が吐いた言葉とあの人たちの目がぐるぐると過ぎり、気管を握り潰してしまう。
だから、三年経った今も、まともなコミュニケーションは取れていない。
自室に入って、内側から鍵をかける。軽やかな金属音と、ため息が重なった。
俺の城と言っても過言ではない、この家の中で唯一の居場所。本棚が壁際に立ち並び、一回り狭くなっている、俺が唯一気を休められる場所。
壁際に置かれた机の横に鞄を置いて、机上のノートパソコンを立ち上げる。起動するまでの時間を使って制服から着替えた。
起動し終えたパソコンで開くのは、文書作成用のソフト。USBメモリに保存されていたファイルをいくつかクリックする。
すぐに、画面にはずらりと並んだ文章が表示された。すべて、俺が書いたものだ。
中三の時の、読むのもはばかられるような駄文。少し上達したもの。高校に入って、文集用にと書いたもののボツにしたもの。それらの設定。削除するのは忍びないが、かと言ってどうする当ても無い、と放置していたものだ。
何となく、書き直してみようかな、と思っていた。別に何日も前から決意していたわけではない。今日の帰り道に、ふと思いついただけだ。
けれど、その思いつきは俺の中で、確固たる意思として居座っていた。
中三のときのものを残して、他を閉じる。まずは、これからだ。
鍵を差し込んで、捻る。カコン、と金属音がして、扉の開閉を邪魔するものは引っ込んだ。
「……ただいま」
返事は返ってこない。当たり前ね。現在両親は二人とも海外出張中で、今は確かロンドンだったかしら。今年は忙しくて帰ってこられなさそうだって聞いてるし、今返事が帰ってきたら通報すべきか逃げだすべきか。まあ、逃げ出してから通報かしらね。
私一人で生活するには広すぎる、一軒家。3LDKなのに使ってる部屋は一つ。後は両親が持っていけなかった荷物が押し込められた物置になっている。引っ越しのときダンボールに詰め込んだまま、開封されずに眠っているから正真正銘物置ね。倉庫といっても過言ではないかしら。掃除もしてないし。
私服に着替えて、階下に下りる。そこまで広いわけでもないリビングも、私一人だとかなり広く感じる。半年以上過ぎた今では、もう慣れてしまったけど。
揺り椅子に腰掛けて、膝を抱えてみる。これなら、誰もいない家で一人寂しく泣いている少女、なんて表現が成り立つかしら。泣いてはいないし、自分で自分を少女と表現する事に強烈な違和感があるけど。
朝陽たちには両親の仕事の都合で戻ってきたと言っているけど、半分は嘘なのよね。元いた場所の社員用の賃貸は両親がいなくなるから契約を続行できなくて、この家は空き家になっていた。そして賃貸マンションの部屋も手狭になってきていて、この地域なら昔からの知り合いや気にかけてくれる大人もいる。三拍子じゃなくて四拍子揃って丁度よかったのよ。
「さて、ご飯にしましょうか」
一人で呟いてみても、寂しさは消えない。
朝陽はこんな気分を、六年間も味わってたなんて。私なら耐えられない。
そう思うと、無性に泣きそうになった。




