夏休み:其の十六
「……見ただろ、さっきの」
零れたのは、葉から垂れた露のような、極小の呟き。けれど、それは確実に空気を震わせ、私の耳に届いた。すぐに理解できるかは別として。
さっき? さっき、さっき……もしかして、不良を罵ってたときかしら?
朝陽の意図に気づき、数泊の遅れがありながらも頷く。けれど、この話がどこに向かっているのかは分からない。
「俺さ、キレるとああなるんだ。我を忘れて、相手に暴言を吐いてしまう」
「だから、いなくなったの?」
「ああ。自分が嫌で、ちづたちに嫌われたんじゃないかって思ったんだ。俺は、そのせいで親と冷戦状態だから」
そう言うと、朝陽は自嘲的に鼻を鳴らす。何を言うべきなのか、事情を知らない私が言っていいものなのかしら。分からない事だらけだけど、薄っぺらい言葉じゃ全然届かないことは、直感的に悟った。
「……自分でも驚くんだ。毎回毎回、自分が相手にぶつける言葉を聞きながら。こんなこと言いたくなんてないのに! って、内心罪滅ぼしみたいに叫びながら。けど、自分がむかついたから、相手を傷つけたいから言ってるんだよな」
「……でも、それは誰にでもあることでしょ? イライラして人に当たったり、心にもないこと言っちゃったり。それでそこまで気に病む必要なんて無いじゃない」
「じゃあさ、ちづは、親にイライラしたからって、『子供は親を選べない』って面と向かって言うのかよ。『お前らと一緒にいたら雑草だってまともに育たない』って、言えるのかよ?」
『言葉を失う』って、こういうことなのね。言いたいのに言葉が出ないんじゃない。言ってあげるべき言葉どころか、場を繕うようなみっともない言い訳すら考えつかない状態。
目を見開いて固まる私を余所に、朝陽は再び笑った。氷点下の温度を伴って。
「今でも忘れないよ。俺が最後に叫んだ言葉を聞いたあの人たちの顔は。すごい顔だったな。表情筋の限界に挑んだみたいだった」
「……何を、言ったの」
衝動的に言ってしまってから、はたと口を噤む。これは、踏み越えてはいけない境界線かもしれなかったのに。
幸いと言うべきか、朝陽は辛そうな顔をすることなく、まるで世間話のような調子でそれを口にした。
「『命令ばっかの独裁国家なんて時代遅れの異物だろ。自分が正しいと信じて王座にふんぞり返ってるピエロの支配下なんてもうたくさんだ。お前らがいないほうが俺は幸せに生きられるっていい加減気づけよ木偶の坊共』だったな。一言一句間違いない」
今しがた耳にした言葉と、そこに込められた思いを理解したとき、私は悟った。これは、開けてはいけないもの。パンドラの箱だったのだと。どうして、私は朝陽の傷をえぐるような真似をしたのかしら。そんなの、ただの自己満足なのに。
何かを言わなきゃならないのに、何も言えない。普通の家庭で生きてきた私の言葉なんて、傷を癒すどころか、傷口に届きもしないから。朝陽が、これ以上痛みが広がらないように張った絆創膏の上から「痛かったね」と言ったところで、何になるというの?
「けど走っていなくなる事はなかったでしょ」
違う、私はこんなことが言いたかったんじゃない。
「もう、嫌だったんだ。人を傷つけるのは。だから極力そういう場面は避けるようにして
たのに。あんなの見せたら、怖くなるだろ。誰だって、あんな暴言は食らいたくない」
「だからって、いきなりいなくなったらみんな心配するじゃない」
「お前らは優しいから。きっと表面上は今まで通り仲良くしてくれる。けど、中身はどうだ? いつだって怒らせないように機嫌を窺う腫れ物扱いだろ。嫌なんだ、そういうの。表面上は変わらず接しながら、どこか引いてる。俺の顔色と機嫌を窺って、ヤバそうなら逃げる。まあ、そうだよな。誰だって、自分を傷つけるものには敏感なんだから」
「そんな事……!」
「無いって、言えるのかよ。気を使わないって、断言できるのか?」
反射的に叫びかけえた私の言葉を、朝陽はあくまで冷静に遮った。声量は私の方がずっと大きかったはずなのに、掻き消されてしまう。
朝陽の言う通りだった。もし、身近にそんな人がいたとしたら、私はどうするかしら。できるだけ近づかないようにするのが、普通よね。
私は聖人君子じゃないから、クラスメイトに対してはそういう態度を取ると思う。けど、朝陽なら。朝陽が相手なら。
けど、そんな目にあったことどころか、誰かに傷つけられたことすら数えるほどしかない私の言葉なんて、朝陽に届くのかしら。『大丈夫』と言ったところで、どれだけ伝わるというの?
言葉が出ない。声帯が鉄に変わったみたいに、頑ななまでに震えようとしない。喉に絡み付いた朝陽の声が、未だに締め付ける。
たった十センチ。対した力も要らずに届くはずの距離が、とてつもなく遠く感じられた。
悔しさに唇を噛む。その痛みで、身体の感覚が現実に戻ってきたようだった。ズボンのポケットで、引っ切り無しに震えているそれの存在を思い出す。これが、私の思い描く通りのものだったら。言葉じゃない。事象として朝陽に示すことができる。
ポケットからそれを取り出す。画面に表示された文字は、期待通りの文字列だった。
いくつかの操作を終え、目的の画面を表示させる。それは、スマホ専用のトークアプリ内に作られた、『神原高校文芸部』なるグループ、つまりは部員用のチャットね。部員全員を対象とした連絡や雑談などは、もっぱらここが使われている。
「朝陽、これを見ても、まだみんながあなたを嫌ってるって、言えるの?」
画面をスクロールして、私が朝陽発見の報告をした部分まで遡る。その後一分も経たないうちから、怒涛のように各自のメッセージが連なっていた。
『良かったー!』
『まったく、心配掛けないでくださいよ』
『人騒がせな奴だ。どこまで行ったんだ?』
『全員、早く戻らないと風邪引いちゃうわよ』
『また不良に絡まれてたりしないですよね』
『えー! そうだったら大変だよ!』
『その場合は即警察だな』
『柏木さんたち、どこまで行ったの?』
『僕達は、お風呂の方で折り返しました』
『二人ともホントに大丈夫!? 連絡ないと心配だよー』
『まあ、どっかで逢引でもしてるんじゃないか? やるな、朝陽』
『だとしても問題ですよー! あさ兄ちゃんに手を出したらちづちゃんでも許さない!』
『安倍先輩が襲ってる前提なんだ……八神先輩、やっぱり変態ですね』
朝陽の目の前に差し出した画面を、水滴が滑り落ちていく。
あれだけ遠い気がしていた十センチは、いつの間にか消えていた。




