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君と、もう一度。  作者: れんティ
夏休み編
39/126

夏休み:其の十一

 カポーン。

 何て効果音が鳴りそうなほど、疑う余地もなく露天風呂だった。

 暖簾をくぐった先の短い廊下を抜け、脱衣所で服を脱ぎ、風呂場の戸を開けると、眼前にライトに照らされた竹垣が映った。欲を言えばその向こうの海が見たいが、そうすると根性で覗きができてしまう。それは避けるべきなのだろう。男としては、そこまで気にしないが。

 竹垣が四方を囲み、それ以外に色はない。とはいえ俺は竹垣に何かを感じられるほど感性が豊かではないので、仕方なく脱衣所方面を向いて湯船に沈む。他の二人も、思い思いの場所で肩まで沈んでいた。

「気持ちいいな」

「ですね」

何が原因かは定かではないが、会話も短い。誰も、率先して喋り散らそうとは考えていなかった。数秒前までは。

 「螢先輩、聞いてもいいですか」

そんなことをいきなり言い出した俺に、螢先輩は楽しむような顔を向け、すぐに引き締めた。その目にどこか苛立つような光が浮かんでいるが、構わずに続ける。無言は肯定だ。

「亜子先輩のこと、好きなんですよね」

いつものあだ名ではなく、一年生のときの呼び方だ。何故俺がこの呼び方を止めたのか、螢先輩は悟っている。

 俺ががわら先輩と名前で呼ぶとき、決まって螢先輩は複雑な顔をした。今ならその内容を言い当てられる自信がある。あれはきっと、特権を取られた悔しさと、仲のいい友人ができた嬉しさがせめぎあっていたんだ。不機嫌を押し隠した顔だったのだろう。

 それはきっとがわら先輩も同じ。だがいっぺんに替えては不思議だろうと、がわら先輩だけあだ名に変えた。それもさも今思いついたように。

 それを俺がわざと呼んだということは、螢先輩へのプレッシャーだ。先輩だけが仲がいいわけじゃないぞ、という。

 それが伝わったのかどうかは残念ながら俺には分からない。が、螢先輩の何かに影響を与えたようだった。

 「……ああ、好きだぞ。小学校に入ったときにはもう、な」

「どのくらい?」

「……視界に入れば必ず目で追ってるだろうな。気づけばいつも考えてる。あの髪に、肌に、触れてみたいとも思う。かなり切実に」

……かなり末期だ。死水も同じような感想を持ったのだろう。どう反応していいかわからずに微妙な表情を浮かべている。

「じゃあ、告らないんですか」

「亜子はさ、俺の幼馴染なんだ。家が隣で、窓から顔を出せばあいつと話ができた。親同士も仲が良かったんだよな。……だから、思い出せる一番幼い記憶にも、アルバムの最初のページにも、あいつはいるんだ」

そんな環境がもたらす男女の関係は、俺に想像することができない。真澄も、千鶴も、『幼い頃から仲の良かった友達』であって、『物心ついたときからいつも一緒な人』じゃない。そんな相手を想うとき、何が起きて、何を考えるのかは、俺には分かるはずもなかった。

 俺も清水も、無言で螢先輩が紡ぐ物語に聞き入っている。先輩もそれが分かっているのか、俺たちに何かを問いかけることもなく、淡々と、心に浮かんでは消え行く言葉を拾い

上げているようだった。

「俺と亜子が生まれてから十八年間、ずっと続けてきた関係は、心地良いんだよな。当たり前だ、そうじゃなきゃこんなに長く続かない。だから、もし、俺が告白して、断られたら? アイツは真面目だから、きっと気にする。俺に気を使って、様子を窺って、俺の想いを真っ向から受け止めようとするだろうな。どれだけ離れたくても、離れられないんだよ。俺の記憶のほとんどに、あいつはいるんだから。それに、あいつは優しくて、世話好きだから。断っても、その後ずっと引き摺るんだよ。あいつの重荷になるのだけは、互いに気を使ってぎこちなくなるのだけは、嫌なんだ。怖いんだ、どうしようもなく、な」

境界線を越えてしまっていたことに、初めて気づいた。他人の心の、触れて欲しくない闇に土足で踏み込んだんだと。洗っていない手で触れたんだと。

 だからと言って、なんと言えばいいのかはわからなかった。ただ漠然と、入ってくる情報を処理するだけ。

 水尾とだけが存在を主張する空間で、最初に動いたのは螢先輩だった。話の終わりを宣言するように、湯船から出てどこかへと向かっていく。

 その背に言い知れない何かを感じた気がして、俺が呼び止める言葉を捜し始めたとき。

 先に声を上げたのは、清水だった。

「王道で、ベタな悩みですね」

「……なんだよ、その言い草」

「だってそうでしょう? 今の居心地いい関係が壊れてしまうかもしれないのが怖くて言い出せないなんて、どこの少女マンガですか」

「だったらんだよ」

「……解決策なんて、もう提示されてるじゃないですか」

そこで、俺は清水の言いたいことを悟った。王道でベタだということは、世の中にある創作物の大半にその悩みの答えが書かれているも同然だ。悩んでいるキャラ、状況、そんなものによって多少は違うかもしれないが、根は同じ。

「……どういうことだよ」

「螢先輩は、恋愛物とか読んだことないんですか?」

「あんまりないな。亜子に連れられて映画行くくらいか」

「なら、分からなくても当然ですね。八神先輩、その方面得意ですか?」

「ああ、まあ読み方に節操がないとは言われるから、結構読んだことはあるな。お前は?」

「そうですね、僕も好んで読むわけじゃないので、同じような感じです」

「じゃあ、話を始めた責任を取って、俺が言うわ」

「何の話だよ!」

突如として始まった、螢先輩を無視した相談に、痺れを切らした先輩が割り込んでくる。そんなことしなくても、今から説明するって。

「先輩の悩みはベタなんで、世の中のお話で解決策は既出なんですよ。それも、かなりのパターンを網羅して。そしてそれらに共通する芯の部分は、どれも同じです」

強調するわけではないが、一呼吸置く。ゆっくりと息を吐き出して、吐き出すべき言葉を練った。

「『勇気を出すのは一瞬、後悔は一生だ』どこかで読んだ本の台詞です。この一言が解決策だと、俺は思いますけど」

「勇気を出した結果の後悔も、一生だろ」

頑固な先輩だ。そこまでして告白したくないのか。

「なら、どっちの後悔の方がいいか、ネガティブな二択をするんですか?」

どこか辛辣に響いたのは、清水の声だ。言わんとすることを察し、俺も便乗する。

「告白して後悔するのか、しないで後悔するのか。どんな結末が待っているかは、分かりますよね?」

螢先輩は、何も言わない。

「告白しなくても、十年以上抱え続けた想いは消えないですよ。それは部長も分かってるはずです」

「告白した方の後悔なら、少しの間気まずくなって、今より少し距離のある関係が再構築されることですかね。そこは、当人の方が詳しく想像できると思いますが」

「告白しない後悔は、そうですね、副部長の傍で、このまま一生幼馴染として自分の気持ちを押し隠して生きていくことですか。あの時伝えておけば良かった、と自分から離れて恋愛を行う先輩を遠めに見ながら生きていくことになりそうですね」

清水の予想は少し大げさだが、十分にありえそうで怖い。もっとも、がわら先輩も螢先輩にぞっこんのようだから、その心配はないとは思うが。

 それでも、螢先輩の危機感を煽るには十分だったようだ。そして俺は、蛇足だとは思いつつ、止めを刺しにいく。

「それに、亜子先輩って人気ですよ。二年の中でも、亜子先輩は可愛いって公言してはばからない奴とかいますし。『幼馴染』って立場に甘えてると痛い目見るのも、また王道です」

今度こそ、螢先輩の顔が引き攣った。俺の顔に浮かんでいる意地の悪い笑みに気づくまで、俺たちの作戦が成功だったと確信させるには十分な表情だった。

「……分かってる。分かってるっての。けどな。俺、分かってなかったんだよな。きっと。言った通り、俺は恋愛には疎いから、そういうのって気づけないし」

数ある蛇口の一つに陣取った螢先輩が、洗面器にたまっていくお湯の向こう側を覗きながらそう零す。

「最初、朝陽があんなことを言い出したときは『お前には関係ないだろ』ってイラついたけどさ、話してみればすっきりするもんだな。まあ、事実は小説より奇なり、お前らの情報はすべてハッピーエンドに纏まるよう構成された創作物だから、そこまで当てになるとは思えないけどな」

洗面器からお湯があふれ出してもまだ何かを見つめたまま、微動だにしない先輩の声色に、六年前の自分が被る。狂おしいほど相手のことを想っているのに、臆病が先立ってしまう。そんなもどかしさ。失敗への恐怖、自分が壊れそうなほどの慕情を抱えて、それを必死に押し隠す苦痛。今はもう、思い出になりかけているけど。

 「……怖いのは、分かりますよ」

気づけば、そんなことを言っていた。

「辛いのも、怖いのも、痛いのも。もどかしいのだって何となく分かります。もしかしたら、思いの痛みも。さすがに、重さまでは分からないですけど」

「そんなの、人それぞれだろ」

「でも、同じような経験だってあるんですよ。伝えられなかった後悔は、先輩より知っているつもりです」

あの時、いえなかったことへの後悔は、今だって時折胸を刺す。ちくりと、小さく深く。

 俺のそんな事情は分からないだろうから、螢先輩がこの言葉の意味を理解することはないだろう。けど、先輩に同じ思いをして欲しくなかった。

 いや、違うな。俺は、先輩を通して自分の後悔を消したいだけかもしれない。同じような状況にいる先輩だから、あのときの後悔を紛らわす道具にしたかっただけだ。

 つくづく、嫌な奴だと思う。

 いつの間にか、音は消えていた。

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