夏休み:其の五
「あさ兄ちゃん、ちづちゃん、おやすみー」
「ああ、おやすみ」
太陽は水平線の彼方にとっぷりと沈み、時計の針は午後九時を指差している。先ほどまで部屋で行われていたばば抜き大会は途中から怪談大会となり、千鶴以下女子三名を大いに震え上がらせた。元凶は、主に清水と螢先輩だ。
そんなことをしつつ、九時を過ぎたところでお開きとなったわけだが。俺にとっては、ここからが正念場だ。なにせ、千鶴と相部屋なのだから。
真澄ちゃんたちと別れて、自分の部屋に戻る。とはいえ、私は朝陽と相部屋だから、どちらかと言えばこっちの方が緊張するんだけど。
「ちづ、お前布団どっちがいい?」
私たちが夕飯を食べている間に引かれた布団は、部屋のスペースの問題なのか、かなりくっついている。布団と布団の間は、三センチも無いわね。枕を並べて眠る、何て表現も、あながち誇大表現ではないほどに。
「……どっちでも構わないわよ」
上手く平静を装えたかしら。とりあえず、声は震えてなかったはずよね。
「そっか、じゃあ俺こっちで寝るから」
そういうと、さっさと洗面所に消えてしまう。歯磨きかしら。いや、そんなことは今関係ないわね。問題は、あさ君が私と寝ることに何の疑いも戸惑いも覚えていないということよ。そんなに意識されていないのなら、かなり衝撃を受けるんだけど。
一人で悶々としていると、洗面所からあさ君が出てきた。
「ふぃふふぁふぁふぃふぁふぃふぃふぁふぃふぉふぁ?」
「……は?」
「ふぁふぁふぁ、ふぃふふぁふぁふぃふぁふぃふぃふぁふぃふぉふぁ?」
……? ああ、「ちづは歯磨きしないのか?」ね。歯ブラシ口に咥えたまま喋らないの。何言ってるか全然わかんないわよ。全部ふぁ行で構成されちゃうじゃない。
「するわ。ありがとう」
でも、他にやることがあるのは楽ね。その間は、変なこと考えなくて済むから。
寝る前にやるべきことをすべて終えて、布団にもぐりこむ。私はことあるごとに気を回したのに、あさ君はまったくそんな素振りが見えない。私一人だけが空回りしているようで、ちょっと陰鬱ね。
「……ちづ、起きてるか?」
「ええ、一応」
「そっか。明日、祭りなんだってな」
「そういえば、夕ご飯のときにそんなこと言ってたわね。行くのかしら?」
「行くってよ。真澄が騒いでた」
その様子がありありと浮かんできて、思わず笑みが零れる。
「真澄ちゃん、そういうの好きそうだものね」
「ああ、何かあるたびに俺を連れまわしてさ」
「……羨ましいわね」
そうやってあさ君を連れまわせる強引さが。何の気負いも無く誘える純粋さが。私がとうに無くしてきたものを、彼女はまだ持っているのね。
「何がだ?」
自分の世界に沈み込んでいた私を、寝ぼけたような問いが引き戻す。嘘、私声に出してた?
「い、いえ、何でもないわ」
「羨ましい、真澄が?」
「だから、別に何でもないのよ」
「今の話で羨ましいところといったら、何かあるたびに色んなところに行くことか?」
「そうね、そうやって思い立ったらすぐ行動できるところとかかしら」
終わらない追求を前に、自棄になって建前を一つ放り出す。いつもとは違って引き際を心得ていないあたり、眠いのかしらね。
さすがに本人を前に、あさ君と色々な場所にいけることが羨ましいなどと言えるはずも無く。代わりに舌に乗せた建前は、あさ君を納得させるほどの説得力を持っていたかしら。紛れも無く、本心の一部ではあるのだけど。
私は、この場の気まずさ、恥ずかしさをごまかすためにあさ君が話しかけてきたのだと思っていた。事実、私はそうなっていたのだから。
けれど、あさ君は違った。
私の建前に何の返事も無く、数瞬の時が過ぎていく。
「……あさ君?」
「……」
そこで耳を澄ませ、空気を震わせる微細な振動を感じ取る。ゆっくりと、大きく、深い呼吸音。要約すれば、寝息。
急激な脱力感と共に、鬱屈した感情が沸き上がってくる。下腹部の奥から、ぼこぼこと。
それは、苛立ち。私はこんなに緊張して、戸惑っていたのに、あさ君は何食わぬ顔してさっさと寝ちゃうなんて。ずるい、悔しい、悲しい。そんな感情がどろどろに融けて混ざり合って、もう一度固まったもの。むかむかと胃の辺りに留まって、周囲を熱していく。
私を意識して無いの? 私に魅力を感じてないの? ……なら、感じるように、意識するように、否が応でもそうなるように、してあげようじゃない。
そんな決意を固めたはいいものの、具体的にどうすればいいかは思いつかない。なにせ私には羞恥心が標準装備。小笠原先輩のように踏み込めないわけじゃないけれど、真澄ちゃんのように強引に引っ張れるわけでもない。どっちつかずな私でも実行できて、当初の目的を果たせる計画は……これくらいね。
思い立ったが吉日。思い立ったら即実行。怖気づく心と倦怠感を訴える体に鞭打って、布団から起き上がる。私の予想通り、あさ君はぐっすり眠っていて、私の行動に気づいた様子もない。計画の趣旨としてはここで目覚めてくれてもいいのだけど、私の実行力的な面での問題として眠っていてくれた方が成功率は上がる。因果なものね。
「……あさ君が悪いのよ……これはただのイタズラなんだから……」
夜中――と言っても十時過ぎだけど――にぼそぼそとなにごとか呟きながら、真っ赤な顔で他人の布団をめくる。客観的に見れば、私って今結構危ない人よね。
心の中で、醒めた自分と浮かれた自分が喧嘩する。言い換えれば、羞恥心とイタズラ心の喧嘩でもあるわね。
布団をめくられて寒いのか、あさ君が身じろぎする。その動きで、私の心は決まった。
一度大きく深呼吸をして、右足からあさ君の布団に体をねじ込む。体の位置と体勢、頭の位置を整えてから、あさ君のほうを振り向いた。
同じ枕に頭を乗せているんだから当然のこと、顔はとても近い。目と鼻の先にあるあさ君の横顔が、私の心臓を蹴り上げた。私がどきどきしてどうするのよ。
心臓を懸命に宥めて、瞼で目の前の光景を塞ぐ。けど、当分眠れそうにはなかった。




