追憶:其の三
「じゃあな!」
「ああ、また明日な」
また今日も、言えなかった。
もう癖のようになってしまった、一日に終わりのため息。あたしの一日は、朝、あさ君と会うときに始まって、あさ君と別れたら終わる。時間の密度のせいで、そんな気分だ。
閑話休題。いつも通り商店街の入口で分かれて、家までとぼとぼと歩く。
不意に、見覚えのある姿が目に入った。
「ちづちゃん、ちょっといい?」
さっき分かれたばかりのすみちゃんが、少し先に立っていた。
「どしたの?すみちゃん」
「ちづちゃん、何か隠してるよね?」
いつものおどおどした態度とは見違えるくらい、はっきりとした言葉。今の今まで悩んでいたことを当てられ、言葉に詰まる。それが何より雄弁な肯定だと分かっていても、咄嗟の言葉は出てこなかった。
「……やっぱり。何か変だったもんね」
「何で分かったのさ?」
「変だよ。ちづちゃん。何か言おうとして、でも言えないみたいに」
そこまで見抜かれてたのか。それでも隠し通せると思っていたあたしは何て馬鹿なんだろう。
自己嫌悪に陥ってる場合じゃない。
「あたしね、引っ越すんだ」
「そうなの!?」
「うん。隠してたみたいになってごめん。お父さんの転勤で、春休みに」
「そっか」
小さく呟いたすみちゃんの顔は、何か言いたげで、それを我慢してるみたいだった。
すみちゃんも、あたしと同じだ。反対したくて、でも困らせるだけだって分かってる。だから、我慢して、飲み込んで、あたしに気を使ってる。
そして、すみちゃんにそれをさせているあたしは、お父さんと同じようにずるい。
「……ごめんね」
何に対しての謝罪なのかも分かっていないのに、謝る。その一言が止めになったみたいに、すみちゃんは顔を上げた。引き攣ってた。
「ううん。しょうがないよね。そっか。残念だね。あさ兄ちゃんには言ったの?」
「言えてないよ」
「早く言った方がいいよ。じゃないと、後悔するんだって。本に書いてあった」
何に対しての言葉なのか、あたしにはわからない。けど、すみちゃんは何もかもお見通しだと言うように笑って、あたしの背後を指差した。
「ほら、今から行きなよ! わたしにも言えたんだから、あさ兄ちゃんにも言えるでしょ!」
でも、もし怒られたら? 嫌われたら?
そんな思いが胸を過ぎり、足を止める。けど、すみちゃんの目を見て、そんな思いを抱く方が間違いだって分かった。スミちゃんは真剣なんだから、あたしだった頑張らないと。
踵を返して、来た道を引き返す。頬に当たる風が痛い。けど、その痛みだって木にならないほど、あたしは何かを考えてた。
「……んだよ! さっきから言ってんじゃんか!」
商店街の入口で直角に曲がり、あさ君の家を視界に納める。丁度、何かを叫びながら、あさ君が飛び出してきたところだった。
「あさ君!」
インターホンを押さなくて済んだことに安堵しながら、駆け去ろうとする背中に呼びかける。ぎょっとしたように振り向いたその顔は、寒さ以外の要因によって真っ赤だった。
「ちづ? どうかしたのか?」
それでも平静を装って近寄ってくるあさ君を前にして、心臓が踊り出す。ゆっくり息を素って、吐いて。頭の中で文章を組み立てる。
「あ、あのね、言わなきゃならないことがあるの」
こんなのあたしじゃない。あたしは、こんなにしおらしくない。なのに、いつもと違う女の子みたいな口調になっちゃって、顔も直視できない。
「……なんだよ」
あさ君が唾を飲み込む音が聞こえそうなくらい、神経が研ぎ澄まされてる。
「……あたしね、引っ越すことになったの」
「え……?」
「春休みに。来年からは、ここにいないの」
まだ自分の中に残っている反抗心を押さえつけるような、言い含める口調。何がおきたのか分かっていないようなあさ君は、ぽかんと口を開けたままだ。
「そんな……う」
そこで唐突に口を閉じる。あたしの表情を見て、嘘じゃないことを悟ったらしかった。
「そっか。残念だな。どうにもならないのかよ?」
「うん。お父さんもどうにかしようとしてくれたみたいだけど、ダメだったの」
「そう……なんだ。じゃあ、引っ越し先を教えてくれ! 手紙送るから!」
手紙。それは、離れてしまうあたしたちを繋ぐ、唯一のもの。その考えに至らなかった自分を役立たずと罵りながら、その提案に飛びつく。
「うん! 分かったら、絶対教えるから」
ゆっくり、息を吐く。第一段階はクリアした。スミちゃんには言ってなかったけど、あたしはここに来るまでに、もう一つ、告げようと決めていた。
本当なら、もっと前に告げていなければならない言葉。引っ越しと言うどうにもならない終幕を前にするだけじゃ飽き足らず、第三者に背中を押してもらわなければならなかった自分が嫌いになりそうだけど、今はそんなことを言ってる場合じゃない。
今更だとは思う。伝えたって、後三ヶ月もない短期間で何ができると言うのか。引っ越した後、何になると言うのか。抱えた思いはあたしの中でいつか枷になるかもしれないけど、伝えないよりはマシだと思うから。
「それとね、あさ君」
言え、今しかないんだ。早く。たった一言じゃないか。何を躊躇っている。
「……どうかしたのか?」
「……何、怒ってたの?」
体の奥底が、意気地なしだと罵る。あさ君の心なしか落胆したような顔を直視できず、視線を逸らした。
「いや、何でもねーよ。じゃあな!」
「あ……」
咄嗟に伸ばした手は、空を切った。




