追憶:其の二
あたしの施行を占拠したのは、理不尽に対する怒りでも、唐突な宣告に対する驚愕でもなく、空白だった。
思考が黒く塗り潰され、何一つ考えることができない。当然返事だって夢のまた夢だ。立ち尽くす案山子と化したあたしは、口を半開きにしてお父さんを見ていた。
「父さんの転勤が決まったんだ。詳しいことはまた伝えるけど、来年からはここにいられないことだけ、分かってほしい」
そこで、ようやくあたしの頭が動き出す。今告げられた言葉の内容を正確に理解して、不意に口を突く罵詈雑言の嵐を辛うじて飲み下す。大きく息を吸って、吐いて。
ここで意地と衝動に任せて罵ってもいい方向に向かわないことが分かるくらいには、私だって大人だ。なんたって、この間十歳になったんだから。
でも、だからと言って論理的な反論ができるほど賢くはない。今あたしの中で渦巻く反論材料は、全部あたしの身勝手な感情なんだから。お父さんの表情から、あたしなんかが騒ぎ立てたところで今更どうしようもないことは読み取れる。それでも、一矢報いたかった。せめて、あたしが何を思っているのかくらいは伝えたかった。
けど。
「……ごめんな、千鶴。父さんも、嫌だったんだ。ここは住みやすいし、お前にとってもいい環境だ。菊池さんみたいに、父さんたち以外もお前を気にかけてくれている。朝陽君や真澄ちゃんも、いい子達で、お前も離れたくないのはわかってる。けど、ごめんな。こればっかりは、どうしようもないんだ。許して欲しい」
ずるい。ずるい。卑怯で狡猾だ。そんなこと言われたら、あたしが何も言えなくなるの分かってるくせに。あたしが文句を言わないの分かるくせに。そうやって、喉まででかかった文句は、反抗は、どうすればいいの?
行き場の無い感情が、胸の奥に沈殿していく。ここにいたら言いたくないのに言ってしまいそうで、逃げるように部屋に戻った。
「……あ、あさ君」
「ん? どうした?」
「ううん。何でもない。また明日な」
「……? おう!」
また今日も言えなかった。遠ざかる背中を見ながら、大きくため息を吐く。
お父さんに引っ越しを告げられてから一ヶ月くらい。二人にはあたしから言うはずなのに、どうしても言い出せない。別に、言ったからどうなるって訳じゃないのに、言い出そうとすると喉の奥で引っかかったように詰まってしまう。そんなことを繰り返しているうちに、雪が降った。
この間から降り始めた雪はもう積もっていて、道路も公園も秘密基地も、真っ白になってしまった。秘密基地に暖房なんてないから、外で遊んでいるのと変わらない。真っ赤になった頬も、かじかんできた指も、もはや見慣れたものだ。
このところ、二人が不審そうな目を向けてきているのは知っている。そして、それがあたしの挙動に関してだということもわかっている。声をかけては何でもないと嘯くのだ、変に思われないわけがない。
そして、その反応はすみちゃんが顕著だ。元々人の表情とか、良く窺ってるから、そういうことにかけてはかなりの目がある。ばれるのも時間の問題かな。
問題は、その時に糾弾されないように、先に言わなければならないことなんだけど。




