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君と、もう一度。  作者: れんティ
番外編
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淡き日々への挽歌:其の十二

 ねっとりと絡みつくような記憶から浮上し、込み上げる苦味を飲み下す。いつしか洗面台を握りしめていた手から力を抜き、大きく息を吐いた。少し水をつけた右手で乱れた前髪を直し、水滴で汚れた鏡の向こうに映る自分に目を向ける。

 酷い顔だ。純粋に、そして他人事のようにそう思う。鏡に映っているのは紛れもなく小夜子のはずなのに、強張った頬も、冥い瞳も、まるで自分のように感じられない。これではダメだ。聡明な亜子はすぐに気づいて気を使うだろう。それでは、意味がないのだ。

 強張る頬をつまみ、左右に引っ張る。少しだけ赤味が差した頬は力が抜け、少し笑みらしきものを浮かべる余裕ができる。やはり、自分は、『小夜子』はこうでなければならない。いつも天真爛漫に。テンションの高さでかき回すように。

 「……『朝陽のお姉ちゃん』だもんね」

それが、その姿が、朝陽が曲がりなりにも心を許してくれた『小夜子』の姿だから。醜い執着心だなんて理解しているけれど、それに縋りつくしかなかった。同じ学校に、同じ空間にいるのなら、尚更。

「……あさひ、うん。あさひ」

何度も名前を呟いて、その一言による動揺を少なくしようと企む。大丈夫、まともに笑えている。

 朝陽のいない世界にすっかり順応した自分に嘲笑を零して、トイレを出た。

 教室に足を踏み入れる。窓から入り込んだそよ風が湿った前髪を揺らした。

「いやー、ごめんごめん。話の途中だったよねー。それで、その八神朝陽君は普段、どんな感じなの?」

笑いながら席に戻り、いまだ前の椅子を占領していた亜子に問う。心配そうに顰めていた眉からひとまず力を抜いた旧友は、中空を見つめるようにして話し出した。

「礼儀正しいわよ。敬語も完璧。まだ付き合いは短いけれど、取り立てて欠点の話は聞かないわね。文章は上手いわ。特別下手な事はないけれど、だからといって全部完璧にできるわけでもない、そんなイメージかしら」

「ふーん。なんか、あんまり個性的じゃない感じ?」

「いえ、そうでもないわよ。前髪の長さだけで十分目立つもの。それに、礼儀正しいのだけれど、正しすぎて距離を感じるわ。何というか、普通どこか砕けた部分が見えてきそうなものだけど、それがないというか……なんて言えばいいのかしら」

悩み出した亜子の言葉を待って、小夜子は頬杖を突いてみる。前髪の長さが個性的なのは、中学から変わっていないらしい。そんなことが、小夜子の胸を温かくする。

「人と仲良くなるためのマナーで、人を遠ざけている……感じかしら。堅苦しい敬語から入って徐々に仲良くなっていくはずなのに、堅苦しい敬語のまま、自分で踏み込んでこようとしないのよ。壁があるというか、距離を作っているというか。そんな感じかしら」

「まるで人と仲良くなる気がないみたい」そう言って、亜子はため息をついた。それは、春の明るい朝を少しだけ憂鬱な空気に変える。

 小夜子自身、気分が沈んでいくのを感じる。今すぐに朝陽のところへ走っていって、朝陽に非がない事を滔々と語り聞かせてやりたくなる。それは無意味だと判っているけれど。安易な自己満足だと理解しているから、震え出した足を抑える。この苦しみすら、小夜子が自分の間違いで背負い込んだ十字架だから。手放すわけにはいかない。

「小夜子? どうかしたの?」

「ん? あーいや。なんでもないよー」

まさか、その朝陽の人嫌いが自分のせいだなんて、言えるはずもなかった。自分が傷つけたからではなく、自分が傷ついてしまった(・・・・・・・・)から、朝陽は人との関わりを避けているだなどとは、口が裂けても。

 幼馴染との距離を何とか詰めようと奮闘している友人に、人間関係の汚れた部分を見せるなんてこと、小夜子にできるはずがなかった。そのせいで怖気づくような事はあってはならないから。今はまだ。

「亜子っちー。そろそろ時間じゃない?」

さりげなく、話を逸らす。丁度、そろそろチャイムが鳴る頃だ。

「あ、本当ね。それじゃあ小夜子。寝ないで授業受けるのよ」

痛いところを突かれ、手を振っていた笑みが強張る。その表情を見て苦笑した亜子は、教室の前の方にある自分の席に戻っていった。

 しかし、自分で水を向けたとは言え、いざ亜子が戻ってしまうと小夜子はまた手持ち無沙汰になってしまった。机の上で腕を組み、その隙間に顔を埋めたところで今しがた釘を刺されたばかりだと思い出す。後で見ることになるであろう亜子の呆れた顔を思い描き、慌てて顔を上げる。

 机の上に転がっていた、黒地に赤いワンポイントが入ったシャーペンが目に入る。それが引き金となり、小夜子は自分がペン回しに挑戦していたことを思い出した。

 吹き飛ぶ危険があり、フラストレーションの溜まる暇つぶしと、睡眠後に見るであろう亜子の冷たい呆れ顔を天秤に掛けた挙句、小夜子の心に設置された天秤は、ペン回しに傾いた。

 転がっていたシャーペンを手に取り、普段同様に持つ。中心付近にある小さな傷を目安に位置を微調整して――――。

「ほらー。席につけー。チャイムは鳴ったぞお前らー」

唐突に入ってきた担任が乱暴に開けた扉の音に驚き、指が滑った。

「あっ」

くるりと綺麗な軌道を描いたシャーペンは、もたつく小夜子の指を潜り抜け、元の位置に収まった。

 自慢げに、赤い模様を輝かせて。

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