淡き日々への挽歌:其の十一
「あ、姉ちゃんおかえり。ケーキある……」
玄関扉を開け放ち、靴を脱ぎ散らかす。何かを言いかけた栄介の言葉は聞こえない振りをして、階段を駆け上る。二階の廊下を駆け抜け、突き当たりの扉を体当たりのように開けた。
寒さ対策のために引かれた絨毯の上に、へたり込む。鞄をひっくり返して空っぽにし、随分と軽くなった鞄をベッドへ投げつけた。それくらいしか、投げて大丈夫なものが手元になかったから。
ベッドに消えた鞄から、絨毯の上に視線を動かす。乱雑に散らばった携帯や財布など、見慣れた小物の中で異彩を放つ、落ち着いた色の包装紙。湧き上がる不穏な感情を押し殺して、上部のテープを剥がす。震える手では、それすらも覚束ない。テープ付近の包装紙をずたずたにして、ようやく成功した。
中から出てきたのは、シャーペンだった。特に特殊な機能がついているわけでもない、何の変哲もないシャーペン。黒一色の本体で、上部に赤でワンポイントの模様が入っている。
それと一緒に、小さなメッセージカードも入っていた。どうやら、この包装は朝陽自身で行ったものらしい。つくづく器用な後輩だ。小さく、頬が引き攣る。
『どういうものが良いのかわからなかったので、文房具です。個人差はありますけど、書きやすさは保証します。よければ使ってください。メリークリスマス』
暗がりの中、目を凝らして読み取る。朝陽らしい、四角い文字。どこか余所余所しく感じてしまうのは、文面のせいか、小夜子のせいか。
興味本位で、ドラマか何かのようにカードを裏返してみる。真っ白な裏面に今度こそまともに苦笑した小夜子は、親指の影からはみ出した、小さな文字に目を留めた。
『これからも、よろしくお願いします』
小さな文字だ。本当に小さな。それでいて、崩れたように歪んでいるため、読み取りにくいことこの上ない。この暗闇では尚更だ。
けれど、温かかった。万感の想いがこもったメッセージというのは、こういうことなのだと痛感するくらい。
じわりと、カードが歪む。原型を留めないほどに歪み、小夜子の視力が意味をなさなくなっていく。ぽたりと、何か冷たいものが滴った。二つ、三つ。カードを掴む手が細かく震えるのを、抑えられない。
慌ててカードを投げ捨て、シャーペンを手に取る。けれど、一目見た途端、何の変哲もないはずのそれを握り潰してしまいたい衝動に駆られ、わずかに残っていた理性を総動員して制止した。それは、思いやりであり、意地であり、わがままだ。自分の独り相撲に巻き込んでしまった被害者へ。贖罪になるだなんて思いもしないが、せめて、気休めでも。自分が朝陽を傷つけただけではないと思いたかった。
それこそが、独りよがりだとわかっているけれど。
顎から滴り落ちた水滴が、小夜子の手を、シャーペンを、伝っては消えていく。
どうしてこうなってしまったのだろう。どこで間違ってしまったのだろう。そんな、意味もない事を考えてしまう。
朝陽は、『これからも』続いていくと思っていた。小夜子も、そうだと思っていた。けれど、現実は残酷に、冷徹に、二人を引き裂いた。それが当然だという顔をして。
そこに至る過程に存在した、全てを憎みたかった。良樹を、真澄を、千鶴を、朝陽を。憎んで、嫌って、責任をすべて押し付けて、自分の痛みを減らしたい。けれど、憎むべき対象の定義をどう変えても、どう逃げても、中心は、小夜子のままだった。朝陽を巻き込み、人に関わる喜びを教え、そしてどん底を教えてしまった自分。誰をどう憎もうが、それはすべて自分へと返ってくる。当たり前だ、すべて、小夜子が自分の望みを叶えるために動いた結果なのだから。
耐えられなかった。耐えられるはずがなかった。全力で望みを叶えた結果、残ったのは自分への憎しみだけだなんて。そんな地獄を、たかだか十五歳の少女が耐えられるはずがなかった。
一度は止めた腕を、振り上げる。わずかな理性は地獄を前に吹き飛び、残されたのはただ漠然とした絶望と、憎悪だけだ。
折れろとばかりに握りしめたシャーペンを、力の限り投げる。前方へと吹き飛んだそれは、勉強机に当たって硬い音を立てた。からからとフローリングを転がり、椅子の向こうに見えなくなる。
振り切った腕を力なく下ろし、小夜子は俯いた。
姉は、様子がおかしかった。
居間でくつろいでいる両親は気にしていないようだが、栄介は心配でならなかった。姉は、一人で全てを抱え込もうとするきらいがある。限界まで溜め込んで、爆発したように泣き出すのだ。幼い頃から何度も見てきた。最近、小夜子が中学に進学した頃から見ることはなくなっていたが、数年やそこらで人の性格が変わることはほとんどない。外的な要因のない小夜子ならなおさらだ。
だからこそ、栄介は心配なわけで。
風呂が沸き、小夜子を除く三人は順番に入り、小夜子の番になる。呼んで来い、と言われ、栄介は渋々を装って階段を上った。この役割は、今日に限って大歓迎だ。小夜子の様子を窺う大義名分ができたのだから。
階段を上り、二階の廊下を突き当たりまで進む。数センチだけ開いた扉から中を覗き、息を呑んだ。
真っ暗な部屋の中で、差し込む月明かりと廊下の明かりに照らされる中、絨毯の上に散らばった荷物に囲まれて、小夜子はただ俯いていた。カーテンも閉めず、鞄はベッドの上に放ってある。
「……ねえ、ちゃ……」
声をかけようとして、ためらう。扉を開け放とうとして、体が固まる。思ったように声が出ず、思ったように動けない。この感覚を、栄介は知っている。いつぞや車に轢かれかけたときと同じ感覚。
恐怖だ。栄介は今、小夜子に声を掛けることに恐怖している。その向こうにある拒絶を恐れている。
言葉が出ない。体が動かない。廊下から差し込む明かりに照らされた背中に、何を言っていいのかわからない。栄介の頭では、答えを出す事はできなかった。
「お風呂……空いたよ」
もごもごとそれだけ言い残して、扉を閉めてしまう。それが不正解だとわかっていても、それ以外の行動を、見つけられなかった。
扉を締め切り、大きく息を吐く。掌がびっしょり濡れている。膝が震えているし、体中がふわふわと頼りない。情けない事この上ない。
「……んだよそれ……」
姉はなんで泣いているのだろう。電気も点けず、一人寂しく暗がりで。
「……ひ……」
室内から届いた泣き声に、思わず耳を澄ます。
「……ひ……あさひぃ……」
アサヒ。小夜子は今確かに『アサヒ』と言った。小夜子の話の中に、『アサヒ』なる単語は一つしか出て来ない。小夜子の友人で、おそらく彼氏。『ヤガミアサヒ』だ。けれど、その人の話をするとき、小夜子はいつも楽しそうだったのに。
「あさひぃ……ごめんなさいぃ……」
どうして、今泣いているのだろう。何故、栄介の大好きな姉は泣かなければならないのだろう。
それが、ヤガミアサヒのせいなのだとすれば、栄介は。
そいつを許せない。
さよが、去っていく。見慣れた後ろ姿が、小さくなっていく。もう二度と触れることのできない遠くへ、消えてしまう。
それがわかっていながら、俺はただ、見慣れた少女の消えた風景を呆然と眺めることしかできていなかった。
叩きつけられた言葉が、空っぽの脳内をぐるぐると渦巻く。心底から苦しそうな小夜子の表情が、脳裏にこびりついてはがれない。
呆然と立ち尽くす俺の肩に、何かがぶつかった。
「あ、すいません」
そう言って会釈し、去っていく男性。その横には、にこやかに話しかける女性。仲の良さそうなカップルだ。
油の切れたロボットのような動きで、自分の左側を見やる。けれど、そこに活発な少女はいない。ただ、寒々しい冬の空気が存在するだけだ。そこを定位置としていた少女は、遠くへ行ってしまった。物理的にも、精神的にも。もう、いかなる手段をもってしても、彼女には届かない。生まれて初めてできた彼女で、姉貴分だったあの少女に。
俺は、彼女をどう思っていたのだろう。嫌いではなかった。いや。好きだった。大好きだった。けれど、記憶の中に埋もれていく四年前の感情と、今俺の中にある感情は、決定的に何かが違う。どこが違うのか、言葉にすることはできないけれど。でも、違うのだ。傍にいて欲しい。けれど、触れたいという欲望に焦がされることはない。あるのはただ、安らぎを求める柔らかな欲だけ。俺が失った、『家族』のピースを求める、川のような落ち着いた感情だけ。
それが、小夜子との違い。俺は、小夜子を、『家族』としか、『姉』としか見ていなかった。それが、小夜子を傷つけているとも知らずに。
俺の身勝手が、小夜子を傷つけた。俺のわがままが、小夜子を傷つけた。
全てを悟り苦しむ小夜子の顔が、両親の驚愕と重なる。それは似ても似つかぬはずなのに、不思議と違和感がなかった。
俺は、両親を罵詈雑言という直接的な方法で傷つけた。小夜子は、身勝手な感情で傷つけた。小夜子が望んだのは『彼氏』だというのに。俺は、『弟』だった。そうあろうと思ってしまった。彼氏として行動する事を、避けていた。
それは『あいつ』への裏切りだと、心のどこかで感じてしまったから。小夜子に見抜かれたように、俺はまだあいつが好きだから。それを忘れようと、諦めようと思っているのにも関わらず。今もまだ、この町から去ったあいつの面影を追っている。そんな惨めな自分を消し去りたかったんだ。小夜子を想うことで、俺の中のあいつを塗り替えたかった。
でも、できなかった。だからと言ってやっと手にした安らぎを失いたくなくて、惰性で関係を維持して。その中途半端が、小夜子を傷つけた。
ダメダメだろ、俺。最低だ。最悪だ。あの時、殴られたって文句は言えなかったのに。バカだ。俺はやっぱり、人を傷つける。
だから、もう、やめよう。結果がわかっているのなら、踏み出さなければいいだけだ。




