淡き日々への挽歌:其の九
ガラスの向こうで、色づいた葉が舞っている。十月にもなれば、それすらも終わりかけだが。
今日は、顧問の出張で部活は休みになった。久し振りに明るいうちから帰ることになるわけだが、良樹は友人とどこかに出かけるとかで先に帰り、朝陽は木曜なので図書当番。従って、小夜子は一人で帰るのだ。いつもは騒がしいはずの柱を素通りし……
「あれ? 真澄ちゃんじゃーん」
未練がましく柱に目をやった小夜子の視界に映ったのは、朝陽の幼馴染だという後輩。真澄だった。
いつものように、少し跳ねたショートヘアに、少し幼い顔立ち。一年生だからと言ってしまえばそうだが、大きな目と二重瞼はそれを超えた幼さを思わせる。
ぼんやりと立っていた真澄は、小夜子に気づくとにっこりと笑った。朝陽の笑顔がハコベだとすれば、真澄の笑顔はヒマワリだ。降り注ぐ日差しの中で咲く大輪の花。
「小夜子先輩! 今日は部活無いんですか?」
抱きつかんばかりに駆け寄ってきた真澄は、犬を思わせる。猫を思わせる朝陽とは、色々な意味で対照的な幼馴染だった。それくらいが、丁度いいのだろうか。
「うん。顧問が出張でねー。今日は休み」
反射的に頭を撫でてみれば、嬉しそうに笑みを深める。単純に可愛かった。
「そうなんですか! あさ兄ちゃんと良樹先輩は一緒じゃないんですか?」
入学して半年以上経っているが、知らないのだろうか。
「よっしーは友達と先に帰ったし、あさひは、図書委員で最終下校時刻まで図書室にいるよ」
「……そうなんですか……じゃ、じゃあ一緒に帰りませんか?」
一瞬で寂しそうな表情に変わった真澄が、縋るように見上げてくる。女子にしては身長の高い小夜子と、一年生の中でも少し低い真澄には、十センチほどの差がある。他意の無い上目遣いをされては、断る事などできるはずも無い。
「うん、いいよー。アタシも一人だったし」
途端に顔を輝かせる真澄と連れ立って、木枯らしの中に一歩踏み込んだ。
轟音を立てて、電車が追い越していく。ヘッドライトはまだ点いていない。まだ太陽は明るく、世界は色づいている。そのことが珍しく、小夜子は饒舌になっていた。
「あの、小夜子先輩、聞いてもいいですか?」
けれど、小夜子が矢継ぎ早に話す取り留めの無い話の間を縫って、真澄が真剣な眼差しをぶつけてくる。
「ん? なーに?」
動揺を隠して無邪気に問い返した小夜子は、真澄の視線に動きを止めた。その視線は、幼いと思っていた真澄とは、百八十度違うものだったから。
「小夜子先輩は、あさ兄ちゃんのこと、好きですか?」
その問いを頭が理解したとき、小夜子は頬が熱くなっていくのを感じた。そんな風に直球で尋ねられた事など、今まで無かったから。
「……そうだね、好きだよ。大好き」
意を決して、口に出す。ここでごまかすのも、意地を張るのも、きっと最善ではないから。真澄が本気なのは視線でわかる。ならば、小夜子も先輩として、兄貴分の彼女として、本気で向かい合わなければ失礼だろう。
そんな思いで口にした言葉を、真澄は表情筋を動かさずに受け取った。そして、それに対しての反応を見せず、更に問いを重ねる。
「じゃあ、あさ兄ちゃんは、小夜子先輩のことが好きですか?」
朝陽が、小夜子のことを好きか。
その問いは、小夜子が自身にすらひた隠しにしてきた闇を、目の前に突きつけるようだった。今まで目を逸らしていたはずのものを、視界一杯に突きつけられる。
答えられなかった。答えられるはずが無かった。朝陽はまだ、小夜子に何も言ってくれていないのだから。あの日の答えを、まだ素振りすら見せないのだから。いや、小夜子は心のどこかでわかっているのかもしれない。朝陽の感情を。
「……やっぱり」
小さく呟いた真澄は、形容しがたい顔をしていた。複雑な感情に翻弄されるような、そんな顔を。
「あの、小夜子先輩。少し、話を聴いてくれませんか? もう一人の、幼馴染の話です」
神妙に頷いた小夜子に歩きながら、と促し、真澄は口を開いた。
もう一人の幼馴染。朝陽と同い年で、男勝りなほど活発な、小夜子に似た少女のことを。いつだって朝陽の隣にいた、真澄の姉貴分のことを。
「……だから、あさ兄ちゃんはちづちゃんのことが好きで、ちづちゃんはあさ兄ちゃんの事が好き。それは、たぶん、紛れも無い事実だったんだと思います。今、どうなのかはわかりませんけど」
どれだけのんびりとした歩みだったのか、日は既に山の向こうへ消えかけている。残光と街灯が、小夜子たちを照らす。
「……それだけです」
「……ねえ、聞いていい?」
空白で塗り潰されていく思考の中で、浮かび上がった言葉を吐き出す。
「どうしてそれを、アタシに言ったの?」
「先輩には、一応伝えておくべきだと思ったからです」
言い切った真澄は、どこまでも真っ直ぐだった。疑いも、悩みもない。自分の行動が何をもたらすのか理解しているだろうに、その考えを曲げるつもりはないようだった。
「……それと、最後に。これは余計なおせっかいなんですけど」
歩道橋の前にたどり着き、真澄がそう前置きする。真正面から視線がぶつかる。嫌な予感が、冷や汗となって背筋を伝った。
「ちづちゃんのときは、あさ兄ちゃんの想いはわかりやすいほど伝わってきました。けど、先輩に対しての想いはわかりません。あたしがわからないくらい上手く隠せるほど、あさ兄ちゃんは器用じゃないはずなのに、です」
それだけを言い残し、真澄は一礼して踵を返す。小夜子もまた、体に染み付いた動きで歩道橋の階段に足を掛けた。
――――――先輩に対しての想いはわかりません
その言葉だけが、小夜子の中をぐるぐると回る。ぐるぐるぐるぐるぐるぐると。
電車のライトに照らされ、我に返る。遠くから、電車が来ていた。
わかっていた。あの啖呵がただの言い訳になっている事に。小夜子が望む未来はきっと、このまま永遠に来ないのだと。朝陽が小夜子を見てくれることはないのだと。
千鶴という幼馴染は、小四の冬に転校したと言う。朝陽の部屋にあった写真も、小四のときだという。千鶴は活発だったという。写真の少女は確かに活発そうだった。
小夜子の中で、パズルのピースがはまっていく。一つはまれば、後は簡単だ。
あの写真の少女こそが、千鶴だろう。ならば、朝陽のあの表情も、声音も、納得がいく。
歩道橋の手すりに額をつける。ひんやりとした冷たさが心地いい。空白に塗り潰された思考が戻ってくる。整理されていく。
――――あさひの中にアタシがいないなんて、そんなこと。
電車が、足元を通り過ぎていく。轟音がそれ以外の音を呑み込む。
「ずっと前から! 全部、全部! わかってるよおおおおあああああ―――――――!」
小夜子の絶叫すら呑み込んで、電車は走り去っていった。




