淡き日々への挽歌:其の八
静かだ。外はじりじりと焼け付くような日差しで茹で上がっているというのに、小夜子も、隣に座った朝陽も、そんな暑さは微塵にも感じていない。扇風機が回る音と、紙をめくる音。そして時折聞こえてくる控えめな声。それだけが、この空間の全てだった。
「……本日、神原市立図書館は、設備点検のため正午を持って閉館とさせていただきます……繰り返します、本日……」
不意に流れた館内放送に驚いて、参考書から顔を上げる。その内容に、小夜子はため息をついた。
「せっかく涼しいところで勉強できると思ったのにー……どうしよっか。今帰ってもアタシお昼ご飯無いよ」
元々、一日ここで勉強するつもりだったのだ。混雑する昼時を過ぎた頃に、近くの飲食店で軽食を食べる算段だった。
時計を見上げる。現在午前十一時四十五分。今からでは、おそらく一番混雑する時間だろう。この炎天下、行列に並ぶのは避けたい。昼食のみで考えるのならば、大急ぎで家に帰れば、残り物や買い置きのカップ麺があるだろう。けれど、それでは朝陽と一緒にいる時間が減ってしまう。ただでさえ、受験が迫ってきて外出に制限がかかっているというのに。
そこで、前述の悩みに戻るわけだが。
朝陽は、特に何を悩んだわけでもなく、答えを出した。
「じゃあ、俺の家で何か食べますか? 簡単なものなら出せると思いますけど」
その提案は、小夜子にとって魅力的で、けれど少し敷居の高いものだった。
「え、えっと、それはさすがに厚かましいんじゃないかな……?」
「ああ、大丈夫ですよ。どうせ、親は店なんで。昼食も、俺とさよの分だけ、俺が作るだけですから」
その言葉の裏側に何かどす黒いものを見た気がして、咄嗟に視線を逸らす。それに触れたら戻れないような気がしたけれど、それ以上に朝陽の提案は魅力的だった。
「……ホントにいーなら……お願いしようかなー」
「ええ、大丈夫です。それじゃあ、行きましょうか」
夏休みの課題をさっさと纏め、鞄を背負った朝陽について、図書館を出る。途端、息が詰まるような熱気が小夜子を包んだ。
それに負けじと、自転車のペダルを強く踏み込む。坂を猛スピードで下っていく朝陽の後ろにピッタリとくっついて、複雑な路地を、広い道路を抜けていく。小夜子の、あまり長いとはいえない髪をはためかせる風が心地良かった。
ほんの五分程で、神原商店街の東口に到着した。
「ここです」
そう言って朝陽が自転車を止めたのは、東口ゲートのすぐ横に立つ、花屋の前だった。
「ここが、あさひの家なの?」
「ええ。まあ、一応」
はぐらかすような、濁すような言い方に疑問を覚えつつ、先導されるがままに店内に足を踏み入れる。
「……おじゃましまーす……」
店の奥で何かやっている気配はするが、顔を出す様子はない。風鈴が鳴ったから、小夜子たちの存在に気づいてはいるのだろうが、どうやら忙しく、手が離せないらしい。仕方なく、そちらの方向に会釈を残し、階段を上がる。
「あさひ、いいの? 一言くらい声掛けた方が……」
居間に通され、食卓と思われるテーブルへ勧められるままに腰を下ろすも、そのことが気がかりで背中が丸くなる。あまり、彼氏の家にいるという興奮や好奇心を発露できる気分ではなかった。それどころか、少しばかり居心地が悪い。
だからこそ、朝陽の表情を読むことなく、そんな地雷を踏んだのかもしれない。
「……いいんです、別に。俺が何をしてようが、あの人たちには関係ないですから」
そう、心底から毛嫌いするように吐き捨てた朝陽の顔は、歪んでいた。見たことがないその表情に小夜子の心臓が締め付けられる。その表情の中にあったのは、どろどろの憎悪と、一握りの後悔。ほんの少しの悲しみだった。
「……け、喧嘩中なんだ」
「小四のときからなんで、そろそろ三年になると思います。口も利いてないんですよ。お金関係みたいな、俺にはどうしようもないこと以外は全部自分でやる代わりに、あの人たちは俺に関わらない。それが契約なんです」
淡々と話すその言葉は、冷え切っていた。絶対零度のように、触れたもの全てを凍りつかせる冷たさではない。濡れた体に当たる風のような、冷たさ。周囲の温かさを奪っていくような、じわじわと締め付ける冷たさ。
それが、哀しかった。朝陽が人付き合いを避ける理由を垣間見た気がして、どうしようもなく苦しくなってくる。
「……話くらいなら、いつでも聴くから」
気づけば、そんなことを口走っていた。
きょとんと首を傾げる朝陽を見て、慌てて弁明する。
「あ、アタシにはその痛みはわかんないし、その喧嘩が何なのかも知らない。けど、話くらいなら聴くから。何にもできないかもしれないけど、せめてそれくらいはするから。だから……」
そんな哀しい顔をしないで。
その一言は言えないまま、声は尻すぼみになって消えていく。
「……ありがとうございます」
消え入りそうな声でそれだけを告げた朝陽は、踵を返して冷蔵庫を漁り始める。その耳が少し赤いのを見て取り、小夜子は小さく笑った。
「……俺、怒ると我を忘れるんです」
朝陽が唐突にそんなことを言ったのは、出された焼き蕎麦に舌鼓を打っていたときだった。既に、互いの皿に残っている焼き蕎麦は半分以下になっている。そこに、何の前触れも鳴く朝陽が呟いた言葉が重く圧し掛かった。
その言葉が、先程の喧嘩からのつながりだと悟ったから。
「我を忘れて、良くわからないまま相手をボロボロに罵るんです。そのせいで、親と何度も喧嘩してて。三年前で、決定的に」
朝陽の中にあるのは、今、後悔の二文字だけだ。それは、小夜子の肌に突き刺さるように伝わってくる。
「……でも、そーいうのは誰にでもあることだと思うよ? アタシも、時々あるし」
必死にフォローを入れた小夜子に対し、朝陽は自嘲的に笑った。その笑みを見た瞬間に、背筋が寒くなる。先程の声と同じだ。冷え切っている。
「でも、親に向かって『お前らと一緒にいたら雑草だってまともに育たない』なんて、言わないでしょう? ……そういうことです」
言葉を失った。頭の中が白くなっていく。言うべき言葉が思いつかない。何か言わなければならないのに、その『何か』はいつまで経っても『何か』のままだった。
「あ、気にしないでください。さよが気にする事じゃないですから」
そう言って、食べ終わった焼き蕎麦の皿を流し台へ下げる朝陽の姿に、はっと我に返る。慌てて焼き蕎麦を平らげ、皿洗いを手伝う。隣で器具の片づけをする朝陽は、いつもと変わった様子など微塵にも見せなくて。仕方なく、小夜子もさっきの話を追求するのは避けた。
それがなくなれば、必然的にこの状況を客観的に見つめてしまうわけで。赤くなる頬を懸命に隠し、小夜子は皿を洗い終えた。
「さよ、こっちです」
洗い物を終え、手招きされるまま階段を上がる。三階の廊下、階段に程近い一室。
扉が開き、促されるままに中に入る。そこは、朝陽の部屋だった。
「えっと、居間だと少しあれなので、汚いですけど、ここで我慢してください」
そこに、小夜子に対する罪悪感はあっても、部屋に入れることへの気後れや動揺はない。男女間にある意識の差なのかも知れないが、それ以上に意識をされていないようで、ため息がこぼれる。
「どうかしました?」
「んーん。なんでもない。それじゃあ、あさひのお部屋はいけーん!」
景気づけるように明るい声を出し、朝陽の机に近寄る。
そこに飾ってあったものを目にして、動きが止まった。
「……あさひ、この写真はいつの?」
丁寧に写真立てに入れられた写真。その中で、前髪の短い朝陽が、髪の長さで辛うじて性別を判別できる少女と並んで、満面の笑みでポーズをとっていた。
「……確か、小四のときのです。そいつが引っ越す日に撮ったんで」
言われてみれば、背景は忙しそうに動く制服を着た男性だ。その横には引っ越し屋のトラックが停まっている。引っ越しの中で撮った写真、というのがしっくり来た。雪は溶けかけだから、三月頃だろうか。
「この子は、クラスメイト?」
「あ、はい。でも、どっちかって言うと幼馴染です。家が近かったんで」
「そっかー」
咄嗟に視線を逸らす。写真を見つめる朝陽の表情は、見たことがなかったから。
見たことがないほど、優しげだったから。その表情だけで、その少女が朝陽にとってどれだけ大切な存在だったかが、わかってしまうから。
曖昧な答えで、その場を逃れた。
「ダウト」
「これ、終わらないねー」
「二人でダウトは無理がありますよ」
「だよねー。五人くらいでやると面白いんだけど」
エンドレスに続くトランプゲームを切り上げて、時計を見上げる。午後五時。他人の家に居座っているこの状況からすれば、そろそろ切り上げるべきだろう。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「あ、はい」
階段を降り、無人の店内を抜ける。相変わらず、朝陽の両親は奥で何かをやっているようだった。
「じゃあ、ありがとね。ごちそうさまでした」
「いえ、こちらこそ。誰かと食べるご飯は久し振りだったので」
中学生とは思えない言葉に、思わず苦笑いする。それくらいしか、リアクションが取れなかった。
挨拶もそこそこに朝陽と別れ、ペダルに力を込める。バスケ部としての意地と感情のごった煮を乗せて、全力で踏み込んだ。




