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君と、もう一度。  作者: れんティ
番外編
115/126

淡き日々への挽歌:其の一

 カシュン、ガチャン。

「んー、どーもうまくいかないなー」

指先から零れ落ちたシャープペンシルを拾うのも、もう何度目か。友人に感化されて手を出したはいいものの、根が大雑把な自分には指先のしなやかさを使うらしいこのペン回しは無理なのではないだろうか。

 勢い余って机から飛び降りた黒地に赤いワンポイントのお転婆を拾おうと手を伸ばしながら、清水小夜子は半ば自棄にそう思った。とはいえ、ここ十分ほど続けているこれをやめれば、ホームルームまでの残り十分ほど、暇になってしまう。

 窓の外には満開の桜。未だクラスメイトの少ないこの時間は、戸口のすぐ横にある小夜子の席からでもはっきりと見ることができる。開け放たれた窓から入ってくる春のそよ風に任せて、このまま眠ってしまおうか。

 「おはよう、小夜子」

ペン回しを諦め、机に突っ伏した小夜子の後ろから、狙ったように声がかかる。おかげで、睡眠に偏っていた意識が、現実へと戻されてしまった。声の主はわかっている。その性格を知っている小夜子としては、自分を寝させないために声を掛けたのかと勘ぐらずにはいられない。なにせ、今眠れば一時間目が終わるまで起きない事は必至なのだ。

 まあ、そんなこともないだろうと思い直す。

「おはよー、亜子っち」

去年からの友人に挨拶を返し、目覚めてしまった以上はお喋りに興じようかと話題を探る。出てきた話題は特に面白みがあるわけではなかったが、定番であるが故に、時間つぶしには持って来いだろう。

 そう結論付け、鞄を置いた亜子が戻ってくるのを待つ。あの聡明な友人は、きっと小夜子の考えを理解しているだろうから。

 「亜子っちー。新入部員はどう? 今年入らないと廃部なんでしょー?」

案の定戻ってきた亜子が前の椅子を拝借するのを待って、考えていた言葉を口に出す。その問いに、亜子は少しだけ口角を上げた。どうやら、地雷ではないらしい。

「一人入ったわよ。これで、首の皮一枚繋がった形ね」

そう言えば、この高校で部活動を行うための最低人数は三人だった。随分甘いんだ、と思うと共に、だから部活が多いのか、と妙な納得をしたものだ。

 けれど、それよりも先に小夜子の興味を引いたのは、一人だけ入ったという新入生の事だ。潰れかけの部活にわざわざ入部するとは、何を感じたのだろう。

「よかったじゃん! ねね、それで、その入った新入部員って、どんな人?」

そう尋ねれば、亜子は少しだけ考える様子を見せた後、慎重に言葉を紡いだ。

「……そうね……前髪が長かったわね。目が隠れるくらいだったかしら」

根暗。

 そんな言葉が一番に思いつくような特徴。確かに、『文芸部』といえばあまり溌溂としたイメージではないが、それにしたって目が隠れる長さの前髪とは。

 しかし、亜子が笑って話せる内容なのだから、悪くは無いのだろう。ただ髪を切りに行くのが億劫で、とかそんな理由に違いない。

 そう言い聞かせた小夜子などどこ吹く風。亜子は次なる特徴を思い出したらしく、すっきりした顔でもう一度口を開く。

「後、あまりテンションが高くもないかしら。部室に来ても、あまり自分から喋ろうとはしないわね」

――――うん、アウト。

 内心でそう呟く。前髪で目が隠れて、テンションが低くて喋りかけてこないのは、根暗以外ありえない。小夜子があまり得意としないタイプの人間だ。

 ちょっとした暇つぶしが、どんどん雲行きが怪しくなっていっている。そのことに口の端を引き攣らせながら、小夜子は亜子が次に発する言葉が救いだと信じて待つ。

「でも、話しかければきちんと応じてくれるし、細かいところにも気がつく、根はいい人よ」

脳の端っこで、人物像が過ぎる。それを小夜子自身が自覚しないまま、見ず知らずの『新入部員』の顔が、少しずつ変わっていく。

「へ、へぇー、いい人じゃん。それで、一年生でしょ? 名前はなんていうの?」

そうである確率は限りなく低いだろう。そうではないと考える方が遥かに自然だ。けれど、何故か小夜子は、その可能性を無視できないでいた。いや、予感があったというべきだろうか。だからこそ、名前を聞いたのだ。

「ええと、確か、八神朝陽、だったかしら。ええ。八神朝陽君ね」

「……八神、朝陽」

愕然と、亜子の顔を見つめる。

 知っている。小夜子はその新入生を知っている。いや、知っているどころか、容姿の一つ一つ、特徴を挙げ連ねていく事だってできる。今も、目を閉じれば鮮明に姿を描くことだってできるほどだ。

――――さよ、今日はどうだった?

今も耳にしがみついて離れない、あの声。今も瞼の裏に焼きついたあの顔。

 無意識に、シャーペンを握り締めていた。

 「……小夜子、大丈夫なの?」

遠慮がちに掛けられた旧友の声で我に返る。心底心配しているようなその表情に、心が痛んだ。

 けれど、これ以上ここで雑談に興じているための精神力は、今の小夜子にはなかった。

「ごめーん、アタシ、ちょっとお手洗いにいってくるね」

早口にそう言い残して、そそくさと教室を出る。いまだ慣れない教室の配置に、少し迷ってから足を動かした。


 教室から少し離れたところで全力疾走に切り替え、宣言通りトイレに駆け込む。灰色のタイルと白い壁のコントラストには目もくれず、入口付近に設置された洗面台に手を掛ける。

 驚いた。それと同時に、少しだけ喜んだ自分を忘れるために、バカみたいに水を流して手を浸す。春先の、まだ冷たい水が心地良かった。

 今更、どんな顔で会えば良いというのだろう。合わせる顔どころか、この体のどこにも見せられる部分なんてないというのに。

 水を止めて、もう一度洗面台に手を突く。ふと顔を上げれば、跳ねた水滴で薄汚れた鏡に映る自分が目に入った。

 いたずらに口角を上げてみる。無様に引き攣っただけの、笑みとは言えない表情。その奥に隠れた瞳には、嫌悪と期待が浮かんでいた。

 そんな馬鹿みたいな自分を映すのは、この汚れた鏡がお似合いだ。

 この記憶は、いつからこんなに汚れてしまったのかはわからない。あれだけ綺麗に輝いていたはずの日々は、いつしかくすんで真っ黒になっている。

 ゆっくりと、沈んでいく。鏡の向こうに吸い込まれていく。

 三年前、朝陽と初めて出会った頃が、ゴミ箱から這い上がってくる。

 抵抗を止めて、身をゆだねた。

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