バレンタインデー:その二十四
片手に買い物袋を持ち、もう片手は朝陽と繋ぐ。そうして歩きながら、私は、質問を一つ投げかけるべきかどうか、悩んでいた。
商店街を出て、歩き慣れた道を進む。そろそろ家が見えてくる、そんな時。
やっぱり我慢できなくて、私は口を開いた。
「ねえ、朝陽」
「ん? どうかしたか?」
「ご両親との話し合い、上手く行ったんでしょ?」
そう。朝陽の雰囲気で分かる。ちゃんと、朝陽が望んだ方向に進んだ事は、何となくだけど、把握していた。だからこそ、私の中には不安が募る。
そんな私の気持ちを知るはずの無い朝陽は、それまでの上機嫌な態度を少しだけ崩した。
「……そうだな……確かに、上手くいったのかもしれない」
煮え切らないその態度が、私に不信感の種を植え付ける。それは、すぐに育っていった。
「かもしれない? どういうことなの?」
追求する私に苦笑して、朝陽が考え込む。
沈黙が通り過ぎて、朝陽が再び口を開くまで、少しの時間があった。
「まだ少し時間あるでしょ? お茶でも飲みながら、話を聞いていきなさい」
心の中に、まだ抵抗を叫ぶ俺もいる。けど、これを逃したら、次はないことはわかってた。
だから、小さく頷く。
俺の肯定を見て、母さんは明らかにほっとしていた。そして、階段を上がっていく。
黙ってついて行った俺が連れられたのは、居間だった。テーブルを挟むようにして、向かい合って座る。
どうしても、苦手意識がある。反射的に俯いて、前髪の鎧を身に着けてしまう。
けど、今はそれをしているときじゃない。
「朝陽。あなた、今までどこにいたの?」
「千鶴の家に泊めてもらってた。ちゃんと、千鶴の両親にも事情を説明して、許可はもらったよ」
そこには色々事情があるけど、黙っておく。知らぬが仏だ。
「そう。戻ってきていたの」
「ああ。四月にな」
どこか、懐かしむように目を伏せた母さんは、けれどすぐに顔を上げた。
「あなたが出て行ってから話し合ったのよ。お母さんたちは、きっと間違ったんだって。いえ、十年前から、あなたと最初に喧嘩したときからずっと。間違ってしまったことはわかっていた。けど、それを訂正する勇気も、お父さんに至っては非を認める柔らかさすらなかったの。お母さんから見ても、お父さんの決めたルールは厳しすぎる。あなたへの当たり方も強すぎた。けどね、お父さんからすれば、それが普通だったのよ。お祖父さんたちが決めたルールと、同じ」
そんなの。そんなの、何の言い訳にも……
「何の言い訳にもならないのは分かってる。あなたの時代とお父さんの時代では、同じルールでも厳しさに差が出るのはわかってる。けど、お父さんがあなたの趣向を認めないのは、お父さんがそう決めたからじゃないの。お父さんは、お父さんの考え方や、趣向しか知らないだけなのよ」
「でも、それでも、父さんだって、いつまでもじいちゃんのルールに縛られてるだけの子供じゃないだろ。じいちゃんは、俺が生まれる前に死んでるんだから」
吐き捨てるように搾り出したその言葉が、母さんの眉を顰めさせる。
「そうね。お母さんたちが、あなたに合わせようとしなかったことは事実。あなたの考え方を理解しようとしなかったのは本当。それは、お母さんたちの間違いよ。けど、これだけはわかってちょうだい。お母さんたちにとって、あなたは唯一の息子で、大事な存在なの。あなたのためを思ってるのは本当」
そこで言葉を切った母さんは、何かを迷う素振りを見せ、ここではないどこかに意識を彷徨わせているようだった。
「お父さん、家を飛び出してきたのよ。結婚を認めないおじいさんたちに嫌気が差してね。幸い、お母さんの親は認めてくれてたから、実家のお花屋さん、つまりここを継いで、生活してきた。けど、あなたが生まれる三年くらい前に両親とも死んじゃってね。寂しくなって、心細くなって、そんなときに生まれたのがあなた。お母さんたち、泣いて喜んだのよ。この子には、絶対寂しい思いはさせないって誓った。しっかり育てて、立派な人間にして、お母さんの両親にも、お父さんの両親にも自慢するんだって」
それだけ一息にまくし立てて、母さんは顔を伏せる。
煌々と点いた蛍光灯が場違いな気がしてくるほど、明るく輝く。けれど、俺と母さんの周りだけは、暗闇だった。
「……その気負いが、おじいちゃんたちの墓前での誓いが、空回りしちゃったのね。力が入りすぎて、大失敗しちゃった。あなたに、辛い思いをさせてしまった。お父さんも、それはわかってる。ごめんなさい。ごめんなさい」
頭を下げた母さんの姿を見ていられなくて、目を逸らしてしまう。
間違ったことはわかってても、訂正する勇気がなかった。
それは、きっと俺と同じだ。
間違ったのはわかってる。失敗なのは自覚している。けど、それを訂正する勇気はなくて。
俺は逃げ出した。母さんたちは、放置した。
どれだけ心が遠ざかったところで、血は抗えないということか。そういうことなら、笑えてくる。
けど、ちゃんと訂正しないと、ダメなんだ。
「……俺も、意地張ってたから。ちゃんと、話し合うべきだったのに。全部突っぱねた。母さんだけが謝る必要はないよ。ごめん。ごめんなさい」
俺も頭を下げる。
「……でもね、母さん」
声のトーンを変えた俺に、母さんは何も言わない。ただ、俯いてテーブルを見ている。
「全部元通り、今日からまた仲のいい家族です、なんて、俺はまだできない。父さんに、文芸部の奴らを馬鹿にされたこと、俺はまだ許せないから」
「……ええ」
「だから、この家に戻ってくるのは、もう少し先になると思う。もう少し、気持ちの整理をする時間が欲しい」
俺が突きつける拒絶は、三回目になるだろうか。けど、今回は毛色が違う。
「でも、いつか必ず戻ってくるから。母さんたちと、ちゃんと話ができると思うから。そのときは、迎え入れて欲しい。勝手かもしれないけど」
さっきの俺みたいに、小さく頷いた母さんを残して、居間を出る。
「またな、母さん」




