バレンタインデー:其の二十一
わたしが掴んでいるせいで、首から上だけが浮いている栄介君が、さっきまでと変わらない目でわたしを見ている。
それに怯んでしまいそうな心に鞭打って、体の底から搾り出した。
「どうしてそんなこと言うの!? そんなこと言われたって、どうしようもないよ! どうしようもないんだから、だったら自分を護らせてよ! 傷つかないように、壊れないように! 今は……それくらいさせてよ!」
唾が飛ぼうが、栄介君の頭が大きく揺れようが、怒鳴るのをやめられない。普段ならここで謝って、やめて、終わりなのに、今は、止まらない。止められない。決壊した感情のダムは既に意味を成さず、瓦礫の山と化していた。
「じゃないともう、わたしは、わたしは!」
「違う!」
両肩を掴まれ、衝撃で口を閉じざるを得なくなる。
怒鳴るのをやめて少しだけ容量が増えた頭で、栄介君の顔を見つめる。その鋭利な刃物を思わせる視線に、背筋が冷えた。
「違う、違うんだ。真澄がやっていることは、自己防衛じゃない! 確かに壊れないで済むかもしれない! でも……でも! それは、自分を自分で傷つけてるだけだ! 自分を傷つけて、努力に泥を塗って、そうやって、自分が積み上げてきたものを否定して、だからダメだったんだって逃げ道を作ってるだけだ! それじゃあ、逃げるだけなんだよ! 問題から目を背けて、逃避して、それじゃあ何も解決しない!」
栄介君が本気で声を荒げるところを、初めて見た。
栄介君の言葉は鋭くて、遠慮容赦なくわたしを切り裂いていく。わたしが纏った鎧を、いとも容易く破り去っていく。
「ふられたのは辛いよ。努力が報われなかったのは辛いだろ。けど、だからって全部壊しちゃったら、何百倍も痛いだろ! せめて、この経験から得られるものが無いと、それこそどうしようもない失敗だ! だから、ちゃんと、自分の努力は受け入れて、ふられたことだけと向き合うんだ! 今お前が傷つけるのはお前じゃない! 恨むべきなのは努力じゃない! 八神先輩だ! 自分をふった人間だ!」
何も言えない。言葉はたくさん出てくるのに、栄介君の迫力に押されて何も言えない。何を言うべきかわからない。
「真澄は偉いよ。好きになってもらうために膨大な努力をして、何年も想い続けて、ダメでも相手を責めない。けど、偉いからこそ、間違ってるんだ。いいんだ。傷つけていいんだ。恨んでいいんだ。今はそれでいいんだ。良いんだよ。真澄の努力は間違ってなかった。誇っていいんだ」
そんなことを言われたら、わたしはもう、耐えられなくなる。
「ただ漠然と想い続けてきた僕なんかよりもずっと偉い。ずっと逞しいよ。でも、泣いていいんだよ。喚いていいんだよ。全部押し殺したら、それこそ壊れるから。誰かを恨んで、怒鳴って、傷つけて、そうやって自分の整理をするのも正しいんだよ。今は自制なんてしなくていいんだ。僕がいるから。僕が聞くから。僕が見てるから。だから。別に想ってくれなくていい。ただ、少しでも本音を言ってくれれば。頼ってくれれば。せめて、僕がいることを忘れないでくれれば。それでいいから」
半ば自分に言い聞かせるような言葉。
おずおずと背中に回された腕に、今は委ねてもいいかな。
そう、思った。
結局部活には私たち以外来なくて、少し早いながらも、五時に部室を閉めた。一応グループにはその旨送って、学校を出る。
――――放課後……ついてきてほしいところがあるんだ。
そう言った朝陽は唇を噛み締めて、俯いていた。だから、何か気の進まないことなのはわかったけど、具体的なことは何も教えてくれなかった。もっとも、何も聞かずに頷いたのは私だけど。
校門を出て、並んで歩く。肩が触れ合いそうな距離は、昨日一歩近づいた結果。けれど、朝陽はずっと塞ぎこんだままで、足元に敷き詰められた雪を見つめている。
話しかけたいけれど、話しかけにくい。何を話していいのか、何を話せばいいのか、そもそも話しかけていいのか、わからない。
けど、だからと言ってやめてしまっては意味がないことは、あの日、朝陽が転がり込んできた日に痛感したから。
私がいるってことを、ちゃんと伝えてあげなくちゃ。
「朝陽、これから、どこに行くの?」
「……うん。少し、ついて来てほしいんだ」
話が噛み合っていない。どうやら、不安が大きすぎて上の空になっているみたい。これはたぶん、私の話も届いていないわね。
手袋をはめた手で、朝陽の手を握る。こういうときは、行動で示すのが一番だから。
驚いて私の顔を見た朝陽に、澄ました顔で笑いかける。これで、話を聞いてもらえるかしら。
「これから、どこに行くのかしら?」
「……俺の、大事な場所」
大事な場所……商店街とか、秘密基地とか、あの辺りかしら? 誰かの家って可能性もあるわね。
それ以降、本格的に口を閉ざしてしまった朝陽の傍で、通学路を歩いていく。繋いだ手の温かさは手袋でわからないけど、一回り大きな手の感覚は、ちゃんと伝わっている。
雪と氷、それから滑り止め用の小石に覆われた道路を、歩く。すっかり暗くなった空は曇天で、あまりすっきりしているとは言えない。
時折すれ違う車のヘッドライトが、私たちを一瞬照らしては過ぎ去っていく。雪を蹴る音が響く。
ひらり、と白い欠片が視界を横切り、地面へ降りていった。
見上げた空から、何千と言う欠片が降ってきていた。どうやら、雪が降り出したみたいね。
「……雪か」
「ええ。予報は外れたわね」
「あー。そういえば、明日の朝まで降らないって言ってたな」
私よりも一拍遅れて気づいた朝陽が、感慨深げに呟く。
すぐに本格的に降り始め、視界が絶え間なく降り積もる雪に占拠される。それも、きれいだった。薄暗がりに、白い欠片が降り積もっていく。街灯に照らされた人工的な陽だまりを、横切っていく。
そんな中、朝陽が足を止めたのは、
「……ここ……」
見覚えのある、お花屋さんだった。




