バレンタインデー:其の二十
「どうしていいかわからないよ……」
零した私の言葉は、スカートに当たって砕けた。
「どうして、どうして!? どうして、わたしじゃないの!? わたしじゃダメなの!?」
どうして小夜子先輩なの。どうして千鶴ちゃんなの。どうしてわたしじゃないの。
「頑張ったよ、わたし、頑張ったの! 全部、怖くて仕方なかったけど! でも、あさ兄ちゃんのために、わたし、頑張って全部変えたのに! あさ兄ちゃんは、活発な女の子が好きだって、そう、思ってたから! なのに、なのに! どうして!?」
「柏木……」
「教えてよ栄介君! どうして!? 」
わたしは、随分理不尽だと思う。
自分で自分を傷つけるのは怖いから、栄介君に頼んでる。栄介君に傷つけてほしくて、でも、傷つけて欲しくなくて。きっと、傷つけられたら恨んでしまうから。
「柏木、八神先輩は、『活発な女の子』なら誰でも好きなわけじゃない。あの人は……最初から最後まで、安倍先輩のことが好きだったんだよ。ずっと」
でも、栄介君は、怒鳴り散らしたわたしの目をしっかりと見据えて、そう言った。
それが、どれだけわたしが望んで、わたしが避けた言葉なのか、わかっているはずなのに。臆せず、逃げず、躊躇わず、真っ直ぐに、相も変わらず、わたしの目を見据えて。
「……そんなの……そんなの……」
頭の中が真っ白に塗り潰される。真っ白な、暗闇に。何もかもが消え去って、何もかもが嫌になって、何もかもを嫌って。恨んで、当たって、突き放して。
「……そんなの……」
わたしの行動はなんだったの。わたしが選んだ道はなんだったの。わたしの覚悟はなんだったの。わたしの努力はなんだったの。わたしの期待は、わたしの気持ちは、わたしの願いは、わたしの苦痛は、わたしの喜びは、わたしの時間は、なんだったの。
「わたしは、何のためにこんなことしたの……?」
もう、わからない。知らない。いらない。全部、全部、いらない。
この口調も、この言葉も、この行動も、この性格も、何もかも。だって、全部無駄だったから。わたしがどれだけ頑張っても、変わっても、千鶴ちゃんには届かないから。
「何それ……そんなの」
わかってる。自分を護るための都合のいい解釈だったことくらい。最初からあさ兄ちゃんは千鶴ちゃん以外見てないんだって、そんなこと、言われなくたってわかってた。けど、どれだけ頑張っても届かないなんて認めるのは嫌だった。
だから、歪めた。
全部、わたしの自業自得。わたしはわたしに踊らされていただけ。
「そんなの……わかってるよ!」
栄介君は、何も言わない。ただ、黙ってわたしの前に立っている。
「でも、やってられないよ! どれだけ頑張っても届かないなんて! 辛すぎるよ! 届くって思ってないと! 壊れちゃうよ……」
もう、どうしていいかわからない。胸のうちに渦巻く感情はどろどろのぐちゃぐちゃで、もう、何がなんだかわからない。元は綺麗だったはずなのに、混ざり合って、押し殺している間に、どうしようもなく汚れてしまった。
「……わたし……何してるんだろうね」
呟きは、涙と共に零れて消える。
「……少し考えればわかるはずなのに。わたしじゃあ、どれだけ頑張ってもダメなことくらい。どれだけ変わったところであさ兄ちゃんにとって、妹でしかないことくらい」
なのに、なのに。
「馬鹿みたいに必死になって、何にも考えないで走り続けて、結局、無駄にしちゃった」
六年、七年かな。わたしは、何も成長できてない。あさ兄ちゃんだけを見てたから。わたしは、ずっと、仮面を被ってただけだから。結局、友達はあさ兄ちゃんとちづちゃんだけ。クラスメイトは仲良くしてくれるけど、でも、一歩踏み込む事は未だにできていない。怖いから。自分の内面を曝け出すのが、否定されるのが、見放されるのが、怖くて。最初から一歩引いて。線引きを明確にして。言わない事はひた隠しにして、クラスメイトとして付き合ってきた。
だから、わたしは何も変わってない。
本当なら、周囲を見て、少しずつ、自分にあった変わり方をしていく期間を、わたしはあさ兄ちゃんだけを見て、急激に、自分とは真逆の人間へと変わろうとしていたから。そんなことをしている間に、わたしは取り残されて、結局、今こうして自分の愚かさを呪っている。
「わたし……馬鹿だ……」
「柏木」
「ねえ栄介君」
何かを言おうとした栄介君を遮って、呼びかける。
「わたし、何したかったんだろうね」
こんなことを言っても、何にもならないなんてわかってる。
「届かないはずの想いを抱えたまま、何年も無駄な努力を重ねて、結局ダメで。残ったのは、自分とは違う性格と、後悔と、どうしようもない失敗だけ。こんなの、最悪だよね。最低だよね。こんなわたし、あさ兄ちゃんじゃなくても好きになってなれないよね」
自分を傷つけて、罵って、そうやって、どん底まで落ち込んで。それで、いい。二度と上がれなくてもいい。二度と顔向けできなくてもいい。
今は、その恐怖が、不安が、痛みが、心地良かった。
「真澄!」
不意に、椅子が大きく揺れる。反射的に目を瞑り、手すりに掴まった。
手すり?
わたしが座っていたのは、一般的な学校の椅子。座面と背もたれのみの、金属パイプと木の板で構成された簡素なもの。手すりなんて大層なものはついていない。はずなのに。
手すりの正体を確認しようと目を開けて、見開いた。
目と鼻の先に、栄介君の顔があったから。
少しだけ荒くなった吐息が、頬を撫でていく。少しだけ見上げる栄介君の目は、さっきよりも、なんだか光が鋭くなっているように思えた。
「真澄」
もう一度、栄介君がわたしの名前を呼ぶ。
両手で椅子の背もたれを掴んで、わたしをその間に閉じ込める。そんな至近距離で、栄介君は言い含めるような声音で、声を紡いでいく。
「お前は、最低じゃない。最悪でもない。好きな人に振り向いてもらうために、それだけ努力したんだ。誇っていい。それに……」
そこで栄介君は言葉を切り、少し赤くなった顔を背ける。
「真澄は、十分可愛いから」
何を言われたのか理解するために、数瞬の時間を要した。
「……え……」
疑問を込めた視線を受けて、栄介君の顔がもう一段階赤くなる。
それでも、口を噤むことはなかった。
「真澄は、誇っていい。何にも無駄じゃないんだ。馬鹿なことじゃないんだ。現に、今の真澄は十分以上に可愛い。変わったことは悪いことじゃないんだ。だから、そうやって自分を卑下するなよ」
反論は幾つも思い浮かぶはずなのに、栄介君の真剣な目を見た途端に、全部霧散してしまう。幾つも思い浮かんでは消えていく反論は、まるで水泡のようで。
「……でも、それじゃあ、わたしは……」
「いいんだ、誇っていいんだ。認めていいんだ。無駄じゃないんだ。失敗じゃないんだ」
どうして、そんなことを。今、ここで、この状況で。
吐息が頬を撫で、前髪を揺らす。真剣な瞳がわたしを射抜き、伸ばされた腕に力が入っているのがわかる。それくらい、栄介君も必死なんだろう。
微かに、腕が震え始める。
「だから……だから、もう、やめてくれ……頼むから……自分を傷つけるのはもう……」
違う。わたしは自分を傷つけてなんかいない。わたしはただ、自分のやってきたことの馬鹿らしさを吐き出したかっただけ。無駄になってしまった努力を嗤いたかっただけ。だから、栄介君が辛く思うことなんて、何一つないのに。
なのに、どうして、栄介君が辛そうなの?
「全部、無駄じゃないんだ。無駄なことなんてなかったんだ。だから馬鹿なことだなんて言うなよ。失敗だったなんて思うなよ。真澄の努力は、真澄が一番知ってるだろ。自分の努力を一番知ってる人間が、認めてあげなくてどうするんだよ……!」
栄介君の言う事は正しいよ。正しいけど、正しいからこそ、わたしは今、それを受け入れられるほど、強くない。受け入れちゃったら、逃げ道がないから。
「でも、だったら、だったらわたしはなんなの! 頑張ったのに! 努力したのに! 足りなかったわけじゃない、なのに、なのに! ダメだったなんて、辛すぎるよ! そんなの、まともに受け入れられるほど、わたしは強くないよ! 否定しないと、失敗だったんだって思わないと、無駄だったって思わないと! わたしは!」
どれだけ頑張ったところで届かないなんて、そんなの過酷過ぎる。努力を積み重ねたところで確率は零なんて、そんなのまともに受け入れられる気がしない。だから、否定したのに。
「……努力が無駄だと思いたいのはわかる。そうしないと辛いのもわかる。けど、だけど! 努力したことは無駄じゃないんだ! 努力は結果的に無駄になったかもしれないけど、努力したこと自体は無駄なんかじゃないんだよ!」
「無駄だったんだよ! そういうことにさせてよ! どうしてさせてくれないの!? わたしが失敗だったと思ってるんだから! それでいいでしょ!?」
言葉だけじゃ足りない。この苛立ちをぶつけきれない。足りない。
思いっきり身を乗り出して、胸元に体当たりする。勢いで栄介君が後ろに倒れ、わたしが付随する。
栄介君が尻餅をつき、わたしの勢いで背中から倒れこむ。
結果として、わたしが栄介君に馬乗りになるような体勢になってしまったが、これ幸いと襟元を掴む。
「どうして、悲嘆にくれさせてくれないの!」




