バレンタインデー:其の十九
「わたしね、小さい頃、小五くらいかな、まではこんなキャラじゃなかったんだ」
唐突にそんなことを言ったから、栄介君は心底驚いたようだった。けど、そのリアクションが、今は嬉しいと共に苛立たしい。
「いっつも本ばっかり読んでて、小柄で、臆病で、内向的な子供。わたしは、その典型的な見本みたいな子だったの」
でも、あさ兄ちゃんたちが声を掛けてくれた。本を大事そうに抱えて、一人で登下校してる女の子。友達はいるけど、放課後遊ぶほどの仲じゃない。そんなわたしに、後ろから声を掛けてくれたのが、二人だった。
――――なあ、一人なのか?
――――良かったら、あたしたちと帰ろうぜ!
いきなりでびっくりしたけど、嬉しかった。胸に抱いてた本で顔を隠しちゃったけど、笑ってたの。知ってるかな?
それから、一緒に遊ぶようになって、下駄箱での待ち合わせが暗黙の了解になって。
――――かしわぎますみ? じゃあ、すみだな!
――――よろしくね、すみちゃん!
わたしは、嬉しかった。一学年上のお兄さんとお姉さん、なんて言うけど、わたしにとって二人は、友達で、お兄ちゃんで、お姉ちゃんで、恩人だった。二人の後ろについて色んなところを走り回って、へとへとになって、泥まみれになって、遊びすぎて怒られたこともあったけど、それすらも誇らしかった。
なんたって、二人の後ろ姿は、すごくかっこよかったから。
わたしの知らない場所に連れてってくれて、わたしの知らない景色を教えてくれて、わたしの知らない気持ちを教えてくれた。二人が教えてくれたことは、今まで教わってきたどんなことよりも輝いて、わたしの中に残ってる。
あの二人は、わたしにとって恩人で、憧れで、そして、最初で唯一の『友達』だった。
それが、変わっていったのはいつからかはわからない。
あさ兄ちゃんばかりを目で追うようになったのは。ちづちゃんよりあさ兄ちゃんに褒められる方が嬉しくなったのは。あさ兄ちゃんに会うたびに、鼓動が激しくなるようになったのは。
でも、ちづちゃんが引っ越す頃には自覚していたと思う。
わたしは、あさ兄ちゃんが好きなんだって。
同じように、あさ兄ちゃんは、ちづちゃんが好きなんだって気づいたのもその頃だったと思う。
どうしていいかわからなかった。二人の邪魔をしたくなくて、でも、自分の思いを無視するのはもっと嫌で。結局、臆病風に吹かれて、態度で伝えるなんて、できもしないことを選んで。
ここまで、ずるずると来てしまった。
けど、それだけなら、わたしは、栄介君に話すことはなかったと思う。こんなこと、別に秘密にするようなことでもないから。
問題は、自覚した後。ちづちゃんが、この町から去ってしまった後のこと。
「……これは、ちづちゃんも知らない思うんだけどね」
わたしだけがこの胸のうちに留めた過去。
ちづちゃんがいなくなって、恩人の片方がいなくなって、わたしは寂しかったし、もちろん悲しかった。けど、それと同じくらい、嬉しかったのも本当なんだ。
ちづちゃんがいないなら、わたしの勝率も上がるから。ちづちゃんがいない穴を、わたしが埋めてあげれば。わたしは、あさ兄ちゃんに一番近い人間になれるから。
醜いけれど、それが本音。
でも、わたしの浅はかな考えはすぐに打ち砕かれることになった。
――――なあ、ちづはどう……ああ、そっか。
あれだけ近くにいた人間がいなくなったんだから、弊害は当たり前。それは、あさ兄ちゃんの場合顕著だった。
いるはずのないちづちゃんを呼ぶなんて日常茶飯事。酷いときは、来るはずのないちづちゃんを、下駄箱で一時間待っていた事もある。
わたしじゃあ、ちづちゃんの穴を埋められない。内向的で、臆病で、本の虫で、後ろをついて歩くばかりのわたしじゃ、ダメだった。
でも、諦められなくて。遠くに行ってもなおあさ兄ちゃんの心に留まり続けるちづちゃんが羨ましくて、心底から、そうなりたいと願った。
願って、祈って、でもそれだけじゃ何も変わらなくて。当たり前だよね。だって、神様は基本、知らぬ存ぜぬ。どれだけ何かを祈ったところで、超自然的な力が一瞬にして解決
してくれるなんて夢は起こらない。それは、そのとき思い知ったから。
だから、わたしは『あたし』になった。
あさ兄ちゃんですら感づかないくらいゆっくりと、言動、口調、一人称、そういったものを変えていった。少しでもちづちゃんに近づけるように。
――――わ……あたしは、秘密基地がいい!
あさ兄ちゃんは、元気で活発で、隣を走ってあげられる女の子が好きなんだって、そう思ってたから。
臆病な自分を殺して、落ち着いた喋りを崩して、お守りだった本を手放して、活発に、快活に、天真爛漫に、あさ兄ちゃんの隣を走っていた。
それがいつの間にか前を走るようになって、手を引くようになって、背中を押すようになって、いつしか、駆けずり回るわたしに、あさ兄ちゃんが苦笑しながらついてくるようになった。
けど、それでもよかった。
あさ兄ちゃんが、ちづちゃんを探さなくなったから。思い出の中で綺麗に輝く、過去にすることができたから。
なのに、あさ兄ちゃんは小夜子先輩と付き合い始めて、悔しくて何日も泣いて、距離を取って、後悔で発狂しそうになって。
でも、それと同時に、少しだけ安心したんだ。
小夜子先輩も、活発で、隣を走れる人だったから。わたしが変わったことは、無駄じゃなかったんだって、そう思えたから。
その後、小夜子先輩と別れて、人との関わりに、どこか及び腰になったあさ兄ちゃんの手を引っ張って、今度はあたしの番だって意気込んだのに。
でも、ちづちゃんが帰ってきた。わたしの努力を嗤うように、六年のブランクなんてないかのように、あさ兄ちゃんの隣に寄り添って。今度は、一緒に歩いてた。
わたしは、二人の前を、急かしながら歩くことしかできなくて。
これじゃあ、何も変わってない。二人が走ってるか、歩いているか、わたしが後ろか前か、それしか変わってない。本質は、何も変わってなかった。
わたしは一年以上掛けて『あたし』になったのに。いつの間にか大人になった千鶴ちゃんが、あさ兄ちゃんの隣に立つなんて。
もう、どうしていいかわからなかった。




