バレンタインデー:其の十八
「そんなの! ただの押し付けでしょ!?」
叫んでしまってから、はっとして口を噤む。これでは、八つ当たりだ。そんなの、望んでいない。あたしは、わたしは、栄介君にこんなことを言いたいわけじゃないのに。
振り払われた腕を細めた目で見ていた栄介君が、わたしを見る。その目は馬鹿正直に怯えを湛えていて、わたしは別の意味で込み上げてきた涙を堪える。今泣いていいのはわたしじゃない、栄介君の方なんだから。
けれど、栄介君はそうしなかった。
浮かんでいた怯えを消し去り、わたしを直視する。そのどこまでも真っ直ぐな視線を受けてたじろいだわたしに向かって――――――あまつさえ、笑って見せた。
優しくて、柔らかくて、どこか安心したような微笑み。
「やっと、本音を言ってくれた」
思わず、と言ったように零したその言葉は、わたしの胸を貫いて、大きな穴を開けていった。
全部、ばれてたんだ。ずっと、隠してきたことを。ちゃんと距離を保ってた事も、言ってないことが一杯あることも。
「でも、せっかくの指摘だけど、僕は従えないよ。悪いけど。今柏木を帰しちゃったら、僕は一生後悔するから」
どこまでも冷静な言葉。でも、少し頭が冷えた今なら、その奥に何かが隠れているのがわかっちゃう。
「だから、聞かせて欲しい。辛いときは我慢なんてもってのほかだよ。抱えきれないものは吐き出さないと。整理できるものもできなくなる。全部聞くから。泣き言でも、恨み言でも、愚痴でも、八つ当たりでも。そうすることで柏木が楽になるなら、僕は」
――――――全部、受け入れるから。
なんて、そんなことを言われたら、もう、もう――――――耐えられないよ!
「ほら、こっち」
腕を引かれるままに教室内に入り、引っ張り出してきた椅子に腰掛ける。どれも、栄介君がやってくれた事。わたしは、情けないくらいに泣きながら、それにただ従っただけ。
わたしを椅子に座らせた栄介君は、わたしの正面で、黙って立っている。どうやら、わたしが口を開くのを待つつもりみたい。
でも、わたしは、何を言えばいいかわからない。それほどまでに、わたしの感情は今、ぐちゃぐちゃになってしまっていた。
そんなわたしを見かねたのか、栄介君が口を開く。
「柏木、なんで泣いてるの?」
どうやら、本当に何も知らないままで来たみたい。今更すぎる質問に、どうしても、笑いが零れてしまう。同時に、わかってくれないことへの苛立ちも生まれていた。
でも、栄介君が纏う雰囲気が、口を噤むという選択肢を選ばせなかった。ううん、選びたくなくしていた。
「わたしね、あさ兄ちゃんに告白したんだ。昨日、チョコと一緒に」
それだけ言えば、栄介君は納得したようにああ、と小さく呟いた。
「どしたの?」
「いや……」
そう言って、栄介君は少し黙る。わたしは、無駄な抵抗だとわかっていながら、流れていく涙を拭っていた。
「僕が今日ここに来たのは、確かに自分の意思だけど。でも、柏木がここにいるって教えてくれたのは、八神先輩なんだよ」
ヤガミセンパイ。やがみ、八神。あさ兄ちゃんのこと。
それを理解した途端、息が詰まった。
「ごめん、変なこと言ったよね。続けて」
あさ兄ちゃんの優しさが、気遣いが、今は痛かった。
だから、それを忘れられるように、わたしは話した。ここで、何があったのかを。わたしが、何をしたのかを。あさ兄ちゃんが、何を言ったのかを。
「でも、あさ兄ちゃんは……! わたしは、妹なんだって! そういう対象として見られないって。ちづちゃんが好きだからって……」
話を続けるにつれ、口調が熱を帯びていく。涙がもう一度溢れてくる。
切れ切れで、掠れている上に上擦っていて、自分でも聞き取りにくいと思う声なのに、栄介君はちゃんと聞いていてくれた。頷きながら、支離滅裂な話を黙って聞いていてくれている。相槌以外では口を挟まないその静かな聴き方が、今は嬉しかった。
「それなのに、最後に! ちゃんと、諦めるはずだったのに!」
――――――こんな、馬鹿みたいな俺だけど……好きになってくれて、ありがとう。
そこで、初めて栄介君が表情を動かした。
「そんなこと言われたら、諦められないよ……!」
またしても、涙が溢れてくる。止め処ない、滂沱。こんなに泣き虫だったかな、わたし。
「……まったく、あの人は」
呆れたように、栄介君が呟く。
「優しいだけが優しさじゃないのに」
真理を突いた栄介君の言葉に、妙に納得する。
だから、こんなに苦しいんだ。
あさ兄ちゃんの優しさが、胸を締め付けている。
諦めるつもりだった。黙ったまま気持ちが消えるのを待つのは嫌だったから、ちゃんと伝えて、はっきり断ってもらって、そして、区切りをつけようとしたのに。どうして、なんで、あんなことを言うの?
そんなこと言われたら、ますます気持ちが膨らんで、抑えきれなくなるのに。体の中が圧迫されて、どんどん苦しくなっていくのに。
口を閉ざしたわたしに、栄介君の視線が向けられている。何を言うべきか悩んでいるようなその表情は、今までの真っ直ぐな顔とは違っていて、面白かった。
この人になら、わたしは、言ってもいいかも知れない。
誰にも言えなくて、曖昧に濁してきた秘密を。
何も言わず、涙に濡れた目でじっと見つめていた私に対して、栄介君は少しだけ赤くなった顔を背けた。
「ねぇ、栄介君」
頭の中で、言葉を組み立てていく。結局文集の原稿はほとんど栄介君にまかせっきりだったけど、わたしだって、国語には自信があるから。どう言えば、こんな話を聞かせていいような話にできるのか、今の頭で考えうる限り最良の言葉を選んで。
「もう少しだけ、愚痴を聞いてもらってもいいかな」
そう言うと、栄介君は目を見開いた後、さっきと同じように笑った。
「よろこんで」




