バレンタインデー:其の十七
踵を返して、階段を下りる。その途中で、千鶴とすれ違った。
「あら、朝陽はいた?」
「ええ。いましたよ。僕は柏木を探してきますけど、部室は開いたままですから」
「わかったわ。わざわざごめんなさいね」
「いえ、これといった用もないのに急かしてすいません」
苦笑した千鶴に一度頭を下げて、階段を一段飛ばしに下りる。
――――――多目的室で、真澄が泣いてるんだ。たぶん、今もいると思う。
耳の奥で、朝陽の声が何度も繰り返される。そのたびに気が急いて、歩幅が大きくなる。
けれど、焦ってはいけない。全速力で駆けつけたところで、混乱した真澄には逆効果だと思うから。一度、五分でいい。自分の感情に整理をつける時間を。
そんなことを唱えてはいるが、本心では、拒絶されるのが怖いだけだ。小夜子のときもそうだった。いつだって、怖がってばかりで何も成し得ない。
そんな自分を変えるために。真澄のためにも、栄介自身のためにも。
廊下の反対端まで大股で踏破し、端から二番目の扉の前で止まる。
二度、三度、深呼吸を繰り返す。
扉に伸ばした手が震えているのに気づき、栄介は自嘲した。
――――――あの時と変わらないじゃないか。
朝陽には偉そうな事を言っておいて、自分だって五十歩百歩だ。誰かの悲しみを前に恐怖に囚われ、ネガティブな可能性ばかりに目がいって。結局、何にもできない。見て見ぬふりをするだけだ。目を逸らして、逃げ出して、自分は悪くないと頭を抱える。挙句誰かに八つ当たりをするなんて、愚の骨頂だ。
――――僕の入り込む問題じゃない
そう叫ぶ臆病者を叱りつける。
いつまでも逃げ続けるわけにはいかないから。そんな自分は、耐えられないから。
意を決して、扉を引き開けた。
ガラガラと扉が開く音を聞いて、あたしは慌てて涙を拭った。けど、拭っても拭っても涙は止まらなくて、どんどん溢れてくる始末。
取り繕うのを諦めて、あたしは振り返った。
「……栄介君、どうかしたの?」
努めて平静を装った声は目も当てられないほど掠れて、上擦っていた。栄介君が眉を顰めたのを見て後悔するけど、後の祭り。
「あ、部活? ごめん、今日も休むね。あたし、今日はもう帰るから……!」
なんて言えばいいのかわからなくて、でも本音を喚いて困らせるのだけは絶対避けたくて、馬鹿みたいにパニックになった挙句、あたしは駆け出していた。一刻も早く、栄介君から離れたくて。
じゃないと、醜悪な本音を全部曝け出してしまいそうだったから。
栄介君のすぐ横を通り過ぎたとき、不意に腕を掴まれる。仕方なく、足を止めた。
「栄介君、どうかしたの?」
号泣しながらも無理やり引き上げた口角。痛々しいほどに掠れて、湿った声。誰がどう見ても大丈夫ではないはずなのに、真澄は平気なふりをして笑う。不恰好な口元の引き攣りを笑みと表現していいのならば。
やっぱり、目の前の少女は自分の前で弱音を吐いてはくれない。本音を聞かせてはくれない。栄介はあくまでクラスメイトであり、寄りかかる対象としては見ていないのだ。
それを痛感する。途端に込み上げてくる悔しさを、もどかしさを、寂しさを、どう伝えたら良いのか、どう吐き出したらわかってくれるのか、栄介にはわからない。だから、黙り込むしかなかった。
「あ、部活? ごめん、今日も休むね。あたし、今日はもう帰るから……!」
栄介の沈黙をどう解釈したのか、真澄が早口にまくし立て、栄介に向かって早足で歩み寄ってくる。考えなくてもわかる。ここから、いなくなる気だ。家に帰って、一人で泣くのだろう。
「あ……」
引き留めるための言葉を探したはいいが、その全てはことごとく喉の奥で引っかかる。
原因なんて明白だ。栄介自身が、伝えるのを怖がっているからだ。拒絶されるのが怖いから。否定されるのが怖いから。何の力にもなれないのが怖いから。
だから、黙り込む。一番手っ取り早い方法だ。真澄は栄介から離れたい。栄介は引き留めるのが怖い。だったら、黙ってしまえば真澄はさっさとどこかへ行くだろう。それで、万事解決だ。
――――――でも、それじゃあ姉ちゃんのときと一緒じゃないか。
今だって時折思い出す。真っ暗な自室の中、ベッドの上で一人肩を震わせていた姉のことを。
もう二度と、知人のあんな姿は見たくなかった。後悔で眠れなくなる夜はたくさんだ。
真澄の姿がどんどん大きくなって、その悲痛な顔が良く見えるようになる。そして、栄介のすぐ傍を通り過ぎた。鼻をすする音が、押し殺した嗚咽が、耳元で鳴り響く。
――――勇気を出すのは一瞬、後悔は一生だ。
いつだったろう、朝陽の口からそんな言葉を聞いたのは。夏休みだった気がする。
半年以上も前の言葉をこんなときに思い出したのは、きっと、この状況にあっているからなのだろう。
たった数秒の勇気。それだけで、後のことは考えなくていい。野となろうが山となろうが、長い時間を掛けて直せばいいのだから。
どれだけの語彙を尽くしても足りない。言葉を出すための時間がもどかしい。
だから、咄嗟に真澄の腕を掴んでいた。
「柏木。待って」
「どうかした? 栄介君」
仕方なく足を止めて振り返る。
そして、息を呑んだ。
「ごめん、でも、そんな状態の柏木を放っておくわけにはいかないよ」
栄介君の顔は、見たことないほど真剣だったから。その真っ直ぐな視線に射抜かれ、体中の力が抜けていく。それくらい、栄介君の瞳には不思議な魔力があった。
「こっちきて。愚痴でも何でもいいから、吐き出しなよ。全部聞くから」
「どうして、放っておいてくれないの……?」
「どうしてもこうしてもないよ。今の柏木を放っておくなんてできない」
どこまでも冷静で、平常どおりな栄介君の態度に、頭が沸騰する。
「そんなの! ただの押し付けでしょ!?」
気づけば、手を振り払って叫んでいた。




