バレンタインデー:其の十六
俺の前で真澄が泣いたのは、何年ぶりだろうか。千鶴がいなくなる前だから、きっと、六年か七年、もしかしたらそれ以上かもしれない。それくらい、あいつは耐えていた。すえての感情を内に秘めて、押し殺して、歯を食いしばって。
やっと、あいつが素直になったのに。勇気を出したのに。俺はそれに応えられないどころか、慰めることもできないで、ぼんやりしている。
それが悔しい。苦しい。大事な人間が辛いときに、何もできない自分が嫌いになりそうだ。
こんなどろどろした感情を抱えたまま部室で平気な顔をしていられるはずもない。だから、俺は部室とは反対側、上り階段へ足を掛けた。
どこからか管楽器の音が聞こえる、気だるげな放課後。昨日の浮ついた雰囲気は綺麗さっぱり払拭された、日常。みんな、昨日一日で決着がついたのだろう。多くの誰かが笑って、それ以上の誰かが涙を呑んだ。そんな一日は、昨日だけで十分なのだろう。今日にまでまたがって誰かを泣かせるのは、俺くらいで十分だ。
階段室にたどり着き、相変わらず鍵のかかっていない扉を開ける。白と鼠色のコントラストは、昨日の夜よりも目に優しい。
曇天のせいか、はたまたまだ日が出ているせいか、今日は昨日より温かい。
心なしか昨日よりも硬い雪を踏み分けて、俺の身長を遥かに超すフェンスに近づく。
網目の向こうに広がった景色は、壮大、とまではいかないけれど、清々しいものだった。
この周辺には、四階建ての学校より高いものはない。しいて言うならば図書館が同じくらいの高さだったはずだが、それだって屋上に立った俺よりも低い。
だから、かなり遠くまで見通せるのだ。しかも、冬の空気は澄んでいる。夏よりも遠くまで見通せる気がした。
白く彩られた風景に対して、俺が抱えている無力感も、罪悪感も、小さく思えた。事実、小さいのだろう。
それでも、自分の無力さを呪わずに入られなかった。数奇な偶然を恨まずにはいられなかった。
どうして、蜜柑さんは、真澄は、俺を好きになってしまったんだろう。どうして俺は、千鶴を好きになってしまったんだろう。どうして良樹は、千鶴を好きになってしまったんだろう。どうして、皆仲良く同じ道を歩けないんだろう。
それは俺が考える事じゃない。俺が後悔していいことじゃない。そんなことはわかっているけれど、思わずにはいられなかった。
四月からの出来事が、俺の脳裏を掠めては消えていく。どれも、これ以上なく楽しかった。千鶴と、真澄と、蜜柑さんと、良樹と、清水と、螢先輩と、がわら先輩と。楽しくて、嬉しくて、幸せだった。
なのに、どうして。こんな風になってしまったんだろう。
俺のせいだと断じるのは簡単だ。事実、今まではそうやってきた。そうして、逃げて、苦しめてきた。
けど、そんな風に思うのは、みんなの想いへの、優しさへの冒涜のような気がした。
だから、答えの出ない問いを、目の前の風景へと投げかける。
――――――どうして、こんな風になってしまったんだろう。
「……こんなところにいたんですか」
背後から飛んできた尖った声に、慌てて振り向く。
扉の敷居に立って俺を睨んでいたのは、清水だった。
「どうかしたのか」
なんで、こんなところに清水がいるんだろうか。そんな疑問は、口に出さずとも清水に伝わったらしい。
「どうしたもこうしたもないでしょう。柏木も安倍先輩も綾野先輩も八神先輩まで来なくて、部室に僕だけなんですよ? 教室にいったら安倍先輩と綾野先輩はいたので話を聞いたら、他の二人も学校には来てるって言われて。これは安倍先輩にも言ったんですけど、部長なんですから、部活をやるならやるで、ちゃんと顔出してください」
ああ、そういえばそうか。二日連続でさぼってるんだよな。俺。蜜柑さんも、千鶴も、俺のせいで。
ぼんやりしてた。目の前に叩きつけられた問題ばかり気にしてて、日常のこととか、他にやるべきことをおろそかにしちゃってるんだよな。
ほんと、嫌になる。
そんな、暗い思考に陥っていたからなのか、我知らず、呟いてしまっていた。
「……ホント、俺って、何にもできないんだよな。なんでこんなに不器用なんだろうな。無力なんだろうな。ほんとに、かっこ悪いよな」
言ってしまってから、はっと口を噤む。嘆くばかりじゃ前に進めないのは、わかっているのに。無力だなんだって、力をつける努力を怠ったツケが回ってきているだけなのに。
こんなこと、清水に愚痴るようなことじゃないのに。
「忘れてくれ。変なこと言った」
「そうですね。八神先輩はかっこ悪いです」
自分で言ったことでも、他人、それも関係の深い後輩に言われるとぐさりとくる。わがままかもしれないが、否定して欲しかったのかもしれない。弱気な自分を、叱咤してくれることを期待していたのかもしれない。
けれど、清水は違った。俺の無自覚の思惑から外れ、自己嫌悪を肯定してきた。
「かっこ悪くて、情けなくて、最低です。一体何人泣かせれば気が済むんですか」
言葉に詰まる。図星というか、一番痛いところを綺麗に突いてきやがった。清水の顔を見ていられなくなって、俯く。
けれど、不思議と嫌味じゃない。だからこそ、黙って聞いていようという気になれた。
「……けど、それくらいでいいじゃないですか」
続いて届いた言葉を鵜呑みにすることができず、清水の顔を凝視してしまう。
俺の視線を不快そうにしかめた顔で受け流した清水は、ぶっきらぼうに話を続ける。
「何でも完璧にできるような人間なんて、不気味すぎて近寄れないです。少しくらいかっこ悪くて、無様な方が、好感が持てます。無力だからなんなんですか。人間、できることとできないことがあって当然なんです。できないことを悩むより、できることを楽しんだ方が楽じゃないですか。それが、どうしようもないことなら尚更」
思わず、溜め息が漏れる。
「な、なんですか」
警戒する清水を苦笑いで宥めて、額を指で支える。
「皆、大人だよなって。なんか、俺だけ子供みたいで恥ずかしい。あーあ、わかってないのは俺だけだったんだな」
「そんなことないです。誰にだって、わからないことはたくさんあります。感情のことなら尚更。けれど、自分の知らないことを誰かが知っている。誰かが知らないことを自分は知っている。そうやって、お互いの足りない部分を補いあってるんです」
僕にだって、教えて欲しい事はあります。
そう呟いた清水の顔は、寂しそうで、悔しそうだった。
「なあ、清水。この流れで一つ頼んでもいいか?」
「内容によります」
にべもない返事に苦笑いを浮かべる。相変わらず、この後輩は律儀と言うかなんというか。
「多目的室で、真澄が泣いてるんだ。たぶん、今もいると思う」
驚愕から怒り、憎悪、そして納得したような表情へと目まぐるしく変わった清水の表情を面白く思う余裕もなく、言葉を継ぐ。
「行ってやってくれないか。俺には、真澄の傷を深くすることしかできないんだ。情けないけど、俺じゃダメなんだ。だから」
俺が最後まで言い切る前に、清水がその場で踵を返す。
「それがわかってて、ちゃんと助けを呼べるだけ、前よりマシじゃないですか」
肩越しにそれだけ言い残して、清水が階段室の向こうに消える。
結局、行ってくれるのかどうか、返事はしてくれないんだな。
そんなことを考えながら、フェンスにもたれかかる。
――――前よりマシじゃないですか
そう考えて、いいんだろうか。前よりも成長していると。ちゃんと、解っていると。
またしても出口のない思考に陥りかける自分を慌てて引き戻して、階段室へ向かう。
清水に怒られたからな、ちゃんと部室には行かないと。
そんなことを考えながら敷居をまたぐと、丁度階段を上ってきた誰かと鉢合わせた。ぶつかりかけて、慌てて体を引く。
「あら、ごめんなさい……って、朝陽じゃない」
「ん? ああ、千鶴か。なんだ、びっくりした」
「それはこっちの台詞よ。あなた、多目的室に行ったんじゃないの?」
他愛のない台詞で濁しつつ、目はしっかりと伝えてくる。『真澄ちゃんはどうしたの』と。
「心配しなくても、ちゃんと振ってきたよ。謝ってきた。泣かせちゃったけどさ」
どうしても、声が湿っぽくなるのを堪えられない。それに気づいているのかいないのか、千鶴は何も言わず、労わるような笑みを浮かべて俺を見ていた。
一歩近づいてきた千鶴に疑問の視線を向ける。けれど、千鶴は俺の視線を黙殺し、右手をゆっくりと伸ばしてくる。
緩慢な動作で俺の頭付近に伸びてきた千鶴の右腕が、突如速度を増して閃く。頭頂部よりやや左よりに、衝撃が走った。伴って、鋭い痛みが押し寄せる。
とはいえ、そこまで強く叩かれたわけじゃない。痛みよりも突然の衝撃に驚いた側面が強いだろうか。
いきなりの暴行に、言うべき言葉は全て霧散する。無意識に叩かれた部分を押さえながら、千鶴を見つめる。
伸ばしっぱなしだった右手で、今度は千鶴の方へ引き寄せられる。なす術もなく上体が傾き、千鶴の肩に額を押し付けるような体勢にされる。そういえば、林間学校のときもこんな体勢にされた気がする。あの時はもう少し距離があったから、千鶴の体に触れることはなかったけれど、今は。どうやら、客観的にみて抱き締められているような体勢らしい。
「……なんて顔してるのよ」
そんなに酷い顔をしていただろうか。
「いつまでも悩んだって仕方ないじゃない。吹っ切って先に進んで、真澄ちゃんや蜜柑が追いついてくるのを待ちましょ? それが、私たちにできる唯一のことよ」
それくらいしかできないのか、俺は。そんなことしか、できないのか。声を掛けることすらできないで、傷つけたまま、自分だけ幸せに前に進むなんて、俺には、到底できそうもない。
「やるのよ。やらなきゃならないの」
俺の思いを見透かしたように、千鶴が呟く。
「私たちが、あなたが、あの二人にしてあげられることなんて、何にも無いのよ。せめて、前を歩いて、ちゃんと生活して、『好きになってよかった』って思わせてあげるくらい。言われたんでしょ? 蜜柑に」
小さく頷く。
「だったら、そうしなさい。こんなところで悩んでないで、ちゃんと前を見て。一歩ずつ進んで。いつか、蜜柑たちが追いついてきたときに、迎え入れられるように」
ゆっくり、息を吐く。吸う。鼓動を抑える。
顔を上げて千鶴と話をしようとして、頭を押さえつけられる。ついでに腰も。どうして、顔を上げさせてもらえないんだろうか。
「……朝陽」
耳元で囁かれ、否が応にも体が強張る。そんな俺の反応には頓着せず、千鶴がその声音を維持する。
「もう少し、私を頼ってくれてもいいんじゃないかしら? こんなところで一人で悩むくらいなら、私に相談してくれてもいいじゃない。解決は約束できないけれど、できる限りの力は貸すわ」
囁き声が、俺の耳から聴覚神経を伝わって脳に浸透していく。脳から、全身へ。伝わるはずのない声が全身に響き渡る様を錯覚する。
「それに、私はあなたの恋人よ? ちゃんと、話を聞かせてくれないと寂しいじゃない。半分ずつ、背負いましょ?」
解らない。今までずっと抱えてきたものを、おいそれと人に渡していいものなのかどうか。高校生という、惚れた腫れたなんて日常茶飯事、付き合って一ヶ月で別れるなんて当たり前の時期に、そんなものを背負わせていいのか。
俺のこれは、あまりにも重いから。
「迷ってるなら、そんな心配は意味がないわよ?」
またしても、上げようとした顔を押さえつけられる。
「引くかもしれないけれど、私は、あなたを手離す気なんてないんだから」
「ッ!」
……まったく、お前は。
どうして、俺が言って欲しかった事を言ってくれるかな。
「……そんなこと言われたら、もう止まらないからな」
「あら、望むところよ。あなたこそ、途中で逃げ出さないでよ?」
いたずらじみた声が、少しだけ揺れている。それはきっと、恥ずかしいからだろう。
千鶴が、頑なに俺の頭を抑えていた理由をやっと理解した。
こんな恥ずかしいことを、面と向かって言えるはずがない。
多くの人を傷つけてきたこと。一度キレると止まらない性格。嫌なことからすぐに目を背ける弱さ。
そういうもの全て、千鶴は認めてくれているんだ。それでもいいと言ってくれるんだ。
だったら、俺もそれに応えないと。
「なあ、千鶴。放課後……ついてきてほしいところがあるんだ」




