バレンタインデー:其の十五
陰鬱な気分を押し殺して、渡り廊下を歩く。千鶴は蜜柑さんと話していたから、置いてきた。そもそも俺がこれから向かうのは部室じゃないし、千鶴を伴うわけにはいかない用事なのだから、一人でいるのは当然なのだが。
念願叶ってやっと付き合い始めた恋人が隣にいないというのは、少し寂しい。そもそも、今日は選択授業やら移動授業やらが重なって、あまり一緒にいられなかったのだ。
愚痴っぽくなる思考を振り払って、階段の最上段に体を引き上げる。
昨日見たばかりの、東棟四階。ため息をつきたくなる衝動を必死に飲み込んで、すぐ隣の教室の前に立つ。設置されたプレートには、掠れて消えかけた多目的室の文字。
腕時計が示す時間は三時五十分。少し早いくらいだが、呼び出した身としては少し早めに着いておくのが礼儀か。
別段、今教室内に入ったところで何があるわけでもないのだが、何となく下腹部がふわふわして、大きく深呼吸をする。
落ち着いたところで一息に扉を引き開け、無人で埃っぽい教室内に踏み込んだ。
積み上げられた段ボール箱の隙間を縫って、窓際までたどり着く。滑りの悪いクレセント錠を半ば無理やり引き下げて、換気を図る。
流れ込んできた冷たい風に少しだけ身震いしながら、真澄を待った。
体感的には三分ほど物思いに沈んでいただけのような気もしたが、時計を見れば既に四時にならんとするところ。どうやら、思っていた以上にぼんやりしていたらしい。
寄りかかっていた窓枠から離れて、窓を閉める。近づいてくる足音を耳が捉えた途端、内臓にかかっていた重力が消え去った。ふわふわゆらゆらと頼りない下腹部を懸命に押さえ込みながら、努めて平静を装う。
足音が、止まった。
ガラガラと、学校の扉特有の騒々しい音を立てて扉が開く。その向こう側にいたのは、真澄だった。
俯きがちになる顔を無理やり前に固定したように、挙動が不自然だ。背筋が伸びきっている。さすがに右手と右足が一緒に出ているわけではないが、緊張しているのは真澄も同じらしい。
そんな姿を見て、俺の内臓に重力が戻ってくる。人の慌てた姿には冷静にさせる効果があるというが、緊張を解す効能もあるらしい。
「あさ兄ちゃん」
「真澄、急に呼び出してごめんな」
俺が真澄をここに呼び出した方法は、今日の昼休みに送ったメールだ。飾り気もへったくれもない、用件だけを綴ったメール。我ながら他に何かなかったのかと思うが、その時はそれを送るだけで一杯一杯だったのだ。
「ううん。大丈夫。でも……」
耐え切れなくなったように俯いて、真澄が言葉をフェードアウトさせる。が、それも一瞬のこと、すぐに顔を上げた。
「ここに呼ばれたってことは、答えは決まってるんだよね?」
いつものように、いたずらじみた笑顔でおどける。けれど、強張った口元も、ひくついている目元も、ごまかしきれてはいない。不安なのが、怖がっているのが、ばればれだった。
でも、あえてそれには触れない。
「ああ。真澄」
改めて呼びかける。少しだけ弛緩していた空気をもう一度張り詰めさせる。
ごまかせないように。笑えないように。何が起きても、目を逸らさないように。
たった数十秒の勇気を惜しんで、後悔するのはもうやめたから。
「……俺は、千鶴が好きだ」
鋭く息を呑む音が、俺の言葉に続く。
何かを言おうとして、真澄が両手で口を塞ぐ。その目は、何かを我慢するように、必死だった。
「だから、真澄とは付き合えない。真澄を、恋愛対象として見られない。ごめん、俺にとってお前は、ずっと妹なんだ。それを、変えられないんだ」
辛いことを言っていると思う。酷いことを言っている自覚はある。惨い仕打ちをしていることはわかっている。
けれど、全てを伝えたかった。
本気で告白してくれた真澄の覚悟に応えるために。俺も、本気で全てを告げようと思う。
「ごめん。酷いこと言ってるよな。わかってる。ごめん。それでも、俺は」
「うん。わかってる。わかってるよ。あさ兄ちゃんは、わたしのために、ちゃんと全部言ってくれたんだよね。謝らなくていいよ。全部……わかってたからッ……!」
常態を装っていた真澄の態度が、崩れる。拳を握る。俺は、何を言えばいい。何を伝えればいい。わからない。思いつかない。
目一杯、涙を溜めた真澄が、俺を真正面から見つめる。
「……ありがとうっ、ありがっ、とう! でも、でも、ごめんね……わたしは、今まで通りあさ兄ちゃんに接することは、もう、もうッ……!」
「いいんだ、それで」
耐え切れなくなったように口を噤んだ、その奥の言葉を読み解く。
それでいいんだ。いつまでも、無邪気な、子供みたいな関係ではいられないから。大人になる過程で少しずつ変化していくそれが、今一気に押し寄せただけだから。
だから、それでいいんだ。今まで通り関われなくて。それは、いつか来るはずだった未来への前払いだから。
「こんなこと言うのは無責任かも知れないけど、最後にどうしても言っておきたいんだ。……聞いて、くれるか?」
懸命に涙を拭う真澄が、弱々しく頷いたのを確認して、頭の中で組み立てていた台詞を、吐き出す。
「――――――――――――――」
泣きじゃくる真澄を教室内に残して、後ろ手に扉を閉める。今まで、どんなときも一番近くにいてくれた人を泣かせてしまった罪悪感で、肺腑がよじれる。
それでも、前に進まなきゃ。真澄にも、蜜柑さんにも、小夜子にも、好きになって良かったと、思ってもらえるように。ここで立ち止まってはいられない。ちゃんと、前に進んでみせる。歩いていってみせる。些細なことで立ち止まって、逃げ出すのはもうやめたから。
あの時、目を覚ましてもらったから。
それでも、そんな決意とは裏腹に、足が動かない。真澄と道を違えるのが、辛い。感じていた温もりが消えるのが、怖い。
扉に背を預けて、何度か呼吸を繰り返す。もう、大丈夫だ。
決別の意味も込めて、さっきの言葉をもう一度呟いた。
「こんな、馬鹿みたいな俺だけど……好きになってくれて、ありがとう」




