第37話 元カノの襲撃
東京での過密なスケジュールも、今日で一段落した。
氷室さんと椿さんは、それぞれブリザード本部と官邸への最終報告のため、部屋を留守にしている。俺は、本当に久しぶりに、一人だけの時間を手に入れた。
息が詰まるようなスイートルームから逃れ、俺は一人、ホテルの最上階にあるスカイラウンジを訪れた。
眼下に広がる、東京の街並み。数ヶ月前まで、俺はこの巨大な街の片隅で、歯車の一つとして、心をすり減らしながら生きていた。それが今、こうして静かに見下ろしている。その心境は、不思議なほど穏やかだった。
「……俊? まさか、俊なの?」
その、穏やかな時間を破るように。
計算され尽くした、わざとらしい驚きの声が、背後から聞こえた。
振り返るまでもない。忘れるはずもなかった。
そこに立っていたのは、かつて、俺の全てを奪っていった元彼女――円絵麻だった。
彼女は、今日の日のために用意したであろう、高級ブランドの服とバッグで身を固めている。しかし、その必死さが、逆に彼女をこの場所に不似合いな、借り物のような存在に見せていた。
(来た……! 今がチャンス……! ここで捕まえれば、私も億万長者の奥様に……!)
そんな彼女の心の声が、聞こえてくるような気さえした。
絵麻は、俺の向かいの席に、許可もなく腰を下ろすと、悲劇のヒロインのような顔で、潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
「俊……あの時は、本当にごめんね。私、あなたの本当の価値を見誤ってた。あなたが仕事で大変な時に、支えてあげることもできなくて……」
見え透いた芝居だった。彼女は、テーブル越しに、そっと俺の手に自分の手を重ねようとしながら、本題を切り出す。
「全部、私のカン違いだったの。だから……お願い。もう一回、やりなおさない?」
俺は、その言葉を、ただ静かに聞いていた。
その無表情な俺に、絵麻は「もしかして、まだ私に気がある……?」と、一瞬、期待を抱いたようだった。
だが、次に俺の口から放たれたのは、彼女の浅はかな期待を、木っ端みじんに打ち砕く、氷のように冷たい一言だった。
「……ふざけるなよ」
俺は、重ねられようとした彼女の手を、払いのけるでもなく、ただ静かに引いた。そして、続ける。
「勘違い? ああ、そうだな。勘違いしてたのは、俺の方だ。お前みたいな人間にも、心があるんじゃないかって、勘違いしてた。お前は、俺が失敗した時に、俺を捨てたんじゃない。俺が失敗したと、『お前が思った時』に、俺を捨てたんだ。そして今、俺が世間で成功してると知ったから、また戻ってきた。……お前の価値基準は、随分と安っぽいんだな」
俺は、コーヒー代の数千円をテーブルに置くと、静かに立ち上がった。
その背中に、絵麻の、プライドが砕け散る音が聞こえた気がした。
「待って!」
計画が失敗したことを悟り、パニックに陥った彼女は、俺の足に、泣きながらすがりついた。
「お願い、俊! 行かないで! 私が馬鹿だったの! ごめんなさい! 謝るから! 捨てないで!」
その、みっともない姿に、ラウンジ中の注目が集まる。俺が、その見苦しい元カノをどう振り払うか、困惑していた、その時だった。
ラウンジの入り口に、用事を終えた氷室さんと椿さんが、静かに現れた。
二人は、目の前の光景を一瞥すると、一切の表情を変えずに、真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。
そして、氷室さんは、俺の右腕を。椿さんは、俺の左腕を。それぞれ、優雅な、しかし有無を言わさぬ力で、そっと取った。まるで、床に落ちたゴミでも見るかのような目で、足元にすがりつく円絵麻を見下ろしながら。
「行きましょう」
「……! なによ、誰よその女たちは! あんたたち、俊とどういう関係よ!」
絵麻が、嫉妬と怒りで絶叫する。
その、ヒステリックな問いかけに対し、二人は、それぞれ、静かに、そして残酷な真実を告げた。
「「もちろん――」」
「この方は世界で一番大事な方です(ギルドの研究にとって)」
「この方は世界で一番大切な方です(国家安全保障上の理由で)」
その言葉は、絵麻には、二人の女からの、完璧な勝利宣言にしか聞こえなかった。
俺が、自分では到底手の届かない存在になってしまったという、絶対的な事実。
二人に腕を組まれ、連れられていく俺の背中を見ながら、絵麻は、悔しさのあまり、高級ホテルの絨毯を、何度も何度も叩いて、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、みじめに泣き崩れるのだった。
エレベーターの中で、俺は、大きく息を吐いた。
不思議と、心は凪いでいた。怒りも、悲しみも、未練も、何もない。
スイートルームに戻った俺は、再び、眼下に広がる東京の夜景を見下ろす。
かつて自分を絶望させた巨大な街。しかし、それはもう、ただの綺麗な夜景にしか見えなかった。
俺は、完全に、過去のトラウマから解放されたのだ。
その晴れやかな気持ちのまま、俺は、福井にいる小町と郁美に「今から帰る」と、短いメッセージを送った。
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