私の選んだ道
ついひと月前までは、何かしらずっと悩んでいたのに、今はもう春の空のようにすっきりと晴れ渡っていた。心配事がなくなるだけで、これだけ心が明るくなるのだなと感動した。
何より、雪人をずっと心配せずにいられるのは良かった。
ずっとずっと問題に巻き込まれてきていたから、やっと彼が好きなことに全力で打ち込めるようになって嬉しかった。
そういえば、この間また雪人の忘れ物を届けに一乗汽船を訪ねたのだが、社屋に入った瞬間、どっと社員に囲まれてしまった。皆口々に「大変でしたね」「大丈夫ですか」「信じてごめんなさい」と言っていて、しっかりと世間に二井家と清須川家のことは知れ渡っているのだなと苦笑が漏れた。
あの件はやはり内々で収められるものではなく、新聞で娼妓の娘に翻弄された華族と士族の没落劇として取り上げらることとなった。
誰が話したのか、そこで清須川家の妹は姉を陥れたというような話も書かれ、一定の者達に広まっていた例の『清須川家のチヨ』は、千代ではなく茜の変装だったのだと広く訂正されることとなった。
勘違いが解消されたのは良かったのだが、このような醜聞の家――清須川家の娘が雪人の妻だと知られたら、一乗家にまた迷惑がかかるのでは心配だった。しかし、蓋を開ければ千代に向けられた目や感情は同情的なものばかりで、批難する声はひとつもあがらなかった。
おそらく、千代と関わりがあった有力者達が、裏で睨みをきかせてくれたのだろうと、雪人が言っていた。また、東郷屋伯爵が手紙で教えてくれたのだが、『一乗汽船と関わると、素敵な手紙が届くようになるから人生が豊かになるぞ』と、代わりに変な噂が広まっているらしい。
噂の出所はなんとなく、それを教えてくれた手紙の送り主のような気がする。手紙から、陽気な笑い声が聞こえてくるようだった。
そして夕方、雪人が会社から帰ってくる。
一乗汽船だけでなく、新会社立ち上げのほうも、近衛侯爵の融資と名前のおかげで順調に事が運んでいるようだ。
おかげで、雪人の帰宅時間も早くなり、二人で過ごす時間も増えた。
もちろん、寝室ももうずっと一緒だ。
大きなベッドの真ん中で、雪人と寄り添い温かさに包まれて眠れることに、毎日幸せを感じている。
目の下のクマもすっかりなくなったし、朝起きてすややかな寝顔の彼を見つめる時間がとても愛おしかった。
「雪人さん……私、毎日こんなに幸せでいいんでしょうか」
千代と雪人は並んでベッドの縁に腰掛け、雪人が千代の髪を櫛で梳いていた。
湯上がりの髪を手ぬぐいで乾かし櫛を通すのが、最近の雪人の役目となっていた。一度やってみたいと言われ任せたら、それから嵌まってしまったようだ。
「これが普通の夫婦なんだけどな」
梳き終わったのか、雪人が櫛を渡してくる。
「それもそうなんでしょうけど――わっ!」
千代は櫛を仕舞いに行こうと腰を上げようとしたのだが、背後からヌッと伸びてきた腕に捕まってしまった。
のしっと体重を掛けられ、背中から抱きすくめられる。
「もう雪人さんったら……」
以前よりも、彼の行動に少しだけ甘えが加わったように思う。
普段何事もそつなくこなしてしまう格好いい雪人が、こうして甘えてくるのを密かに可愛いと思っているのだが、言ったら甘えが減りそうなので言わない。
「普通に雪人さんに髪を梳いてもらって、普通にこうして雪人さんの腕の中にいられる日々が、私にとってはとっても幸せなことなんですよ」
「千代が幸せなら、俺も幸せだ」
彼が喋ると、後頭部がくすぐったい。
「これで、もう本当に千代を縛るものは何もなくなったな。あ、いや、俺以外はだが」
縛っているという自覚があるらしい。
思わず、クスッと笑みが漏れた。
千代は、身体を捻って雪人を振り返る。
整えられた髪も好きだが、自分しか見ることができない彼の素の姿――下ろし髪を見るたびに、頬が緩んでしまう。
「雪人さんの隣でなら、私は自由でいられます」
頬に触れた。
「大好きです、雪人さん」
雪人の端正な顔が近付いてくる。
「君は俺の初恋で、俺のすべてだ。君にだけ一生の愛を捧げると誓うよ」
「私も、あなたが最初で最後の愛しい人だと誓います」
「二人で温かい家庭を作ろう」
「あなたとなら」
この道を選んで良かった。
――お母様、私、とても自由です。
外
時が流れるのは早いもので、すべて終わったあの日から三年が経っていた――。
昼食後、善路は和館に戻り、縁側からぼうと目の前に広がる庭を眺めていた。
「実富ー」
何気なく名前を呼んだ。
すると、しばらくして、「はい」と見覚えのある初老の男性が、前庭の茂みの中から姿を現した。手には枝切りばさみを持っている。
いつも影のように寄り添ってくれているのだが、おそらく千代は気付いていないだろう。
自分が呼ばなければ実富は現れない。
彼は、昔から自分の隣にいた。ずっと昔からだ。
自分の目であり、耳であり、手であり、足であった。
だが、自分と彼が似ている部分というのは恐ろしいほど少ない。いや、多分ないと言える。
影なのに、自分と違う形をした影なのだ。
三年前、二井家と清須川家のその後について、こちらが指示する前から動き、動向を掴んでおいてくれた。
「お前も一緒に住めばいいのに。部屋は余ってるぞ」
「ふふ、わたくしはこの距離が良いのですよ」
実富は近くの木々を剪定しながら言った。何度こうやって聞いても返ってくる言葉は決まって同じなのだが、それでもやはり聞いてしまうのはなぜなのか。
もはや一種の挨拶がわりとなっている。
「忠臣も全然住み着かないからな。雪人も一緒にと言っているらしいが……お前達二人は変なところで似てるよな」
「まあ、そうですね。秘書ですから」
「隠居したし、秘書とかないんだがな」
「そういうものですよ」
「どういうもんだよ」
昔から、こののらりくらりと躱すように返答するのは、変わっていない。二人して中身はそのままに年だけとったのだろう。
すると、実富は眉を下げて、クスッと困ったように柔らかく笑った。
「自分が家族をもつのが怖いのですよ。わたくしも、瀬古君も……」
「ひとりのほうが怖くないか」
「ひとりではありませんから」
チラと向けられた微笑が浮かぶ目は、『お前がいるだろう』と言っていた。
「確かに」と頷いてしまった。
「わたくし達のような者は、幸せな家族を遠目に見るくらいがちょうど良いのでございます」
「言っとくが、私はお前も忠臣も家族だと思っているからな」
「充分に伝わっておりますとも。だからこそ影でいいのです」
「わっかんねえなあ」
「人それぞれでございますから」
「便利だよな、その言葉」
結局、いつも着地点は彼の『否』で終わるのだ。
庭に離れでも建てて、無理にでも住ませてやろうかとも考えたこともあったが、おそらく、住んでいるふりをするだけだろう。影と言うくせに、この影は自我が強固すぎるのだ。
「あの子達にも、幸せになってほしいな」
「問題ありませんよ。旦那様に似ておられますから」
「……似てるか?」
「ええ、実に若い頃の旦那様にそっくりでございますよ。奥様を愛しすぎるほどに愛しておられるところなど特に」
実富はまたパチンパチンと枝を切りはじめた。
「じゃあ、大丈夫か」
空を見上げた。良い春日和だ。
温かさに心は和らぎ、すべてが芽吹き、生命の力強さを感じる季節――幸せが訪れる季節だ。
玄関から「ただいま戻りました」という忠臣の声の後に、「ただいま」と言う千代と雪人の声、そして、元気な赤児の泣き声が聞こえてきた。
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