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「私は……いつか連絡が来ると……だから、新聞の通信欄も毎日確認して……」
「ははっ! 八年も!? 健気だねえ」
四肢を床について項垂れる父を心配する声は、ひとつもない。
あれだけ可愛がってきた茜でさえ、立ったまま床で項垂れる父を見下ろしている。
「清須川さん、どういうことなんですか!? 金がないって……それじゃ困るんですよ!」
「そんなはずない……そんなはず……」
二井子爵が父に駆け寄っていたが、掛ける言葉を聞くに、心配からではないのは明確だった。床で膝をつく二家の当主に、皆が可哀想な者を見るような目を向けていた。
今や誰も、今日この場がめでたい披露宴会場だったなど、覚えてはいないだろう。
「二井家は土地を売るほどに窮状が良くないのは知っていましたが……この様子を見るに、結構危ういようですね。清須川家の資産をあてにしていたようですし」
雪人は足元で繰り広げられる醜い言い合いを睥睨し、独り言としてはやや大きすぎる声で、二井家の窮状をツラツラと述べていく。
「なぜ、維持が大変な別邸にわざわざ勇一郎様ひとりを住まわせ、残されているか不思議だったのですが……売るに売れなかったんですね。確かに、売ったら金がないと言っているようなものですし。だけど……清須川家に勇一郎様が入れば、別邸に住む者がいないという売る理由ができる。なるほど、清須川家にこだわっていた理由に納得しましたよ」
「――っ黙れよ、平民風情が! お前らに華族の何がわかる!」
このような父親の情けない姿や、今や妻となった茜が娼妓の娘で、しかも清須川家の血を引いてるのかも怪しいといった、理想がすべて瓦解した状況に、勇一郎は声に震わせ、目に涙を浮かべ喚いた。
完全なる八つ当たりだと、誰の目にも明らかだ。
「勇一郎様、その言葉は悪手ですよ。この場には、今は爵位をお持ちの方もいますが、平民の実業家の方々もたくさんいらっしゃるのですから」
「ぁ……っ」
ハッとして顔を青くした勇一郎は、慌てて会場を見回した。
向けられる目は槍よりも鋭く、ギラリと鈍色に光っている。
華族の次男坊といっても、内外の文化や産業が混じりはじめた混沌とした黎明社会を生き抜いてきた猛者達に比べれば、大した格もなければ度胸もなかった。
腰が抜けたのだろう、勇一郎は父親達と同じように床にへたり込んでしまった。
「さて、茜さん」
そして、とうとう雪人の矛先が茜へと向き、ビクッと彼女は肩を跳ねさせた。
「私の妻をいわれのない噂で貶め、彼女を苦しませ続けた責任は取ってもらいましょうか」
茜はゆるゆると顔を上げた。顔面蒼白で唇を噛みしめている。
しかし、意気消沈したようには見えない。
「ここで妻に謝ってください。そして、作り話を流したのも、融資を妨害したのも、すべて自分だと認めてください」
「ゎ……あ、あたしじゃないもん……しょ、証拠は!?」
「この期に及んで……」
苛立たしそうに雪人が舌打ちをした。
「噂の犯人は、そのほくろが何よりの証拠でしょう。融資妨害も、副頭取や土井侯爵を脅迫した話も、花街にいた時に聞いたのでしょう。お二人の証言がなによりの証拠ですよ」
「やめてよッ! 違う違うちがうっ! あたしじゃないっ! あんな女に似てなんかな――っ!」
聞きたくないと耳を両手で塞いで癇癪的に叫ぶ茜の声は、パチンッ、という肌を打つ乾いた音で止まった。
「いい加減になさい、茜」
茜の元へとやって来た千代が、彼女の頬を打ったのだ。
「あなたの行動で、どれだけの方々が迷惑を被ったと思っているの」
目を見開いた茜は、信じられないというように、赤くなった頬に触れていた。
「全部お前が悪いんだよ! 士族家に生まれてなんの不自由なく生活して、母親にも愛されて……っ、あたしは花街なんてドブ底で生きてたってのに! 優しさ見せたらあたしが懐くとでも思ったのか!? アハハッ! そんなわけねーだろ、優しくされるたびに虫唾が走ってたわ! ねえ、お姉さま……あたしと姉妹だってんなら、お姉さまが持ってるもん、全部あたしにちょうだいよ……ねえ……あたしが不幸だった分、お姉さまも不幸になるべきでしょう……?」
めちゃくちゃだ。
「――っあたしが! 一番誰よりも幸せにならなきゃダメなんだよ! あたし以外、皆不幸になれよ! あたしに跪けよっ!」
肩で息をして、喉を涸らしながら叫ぶ茜の姿を見て、これが本当の茜なのだと知った。
化粧が涙で剥がれ落ち、綺麗に結われていた髪は山姥のようにふり乱れ、羽織っていた打ち掛けはずるりと脱げている。
「あたし……っ…………間違って……なぃ、もん……っ」
美しいと評判だった花嫁の姿は、もうどこにもなかった。
これが、この憐れと言わざるを得ない姿が、茜の本当の姿なのかもしれない。
ずっと、歪んだ思いに囚われて生きてきたのだろう。
なんて不自由な子だろうか。
ふと、思った。
娘に自由に生きることを願った母も、もしかしたら、何か強い感情に囚われていたのかもしれない。今となっては、母の本意を知ることはできないが、こんな苦痛に満ちた思いから解放されたのだとしたら、早い死も救いだったのかもと思えた。
「あなたが幸せになりたかったのなら、私なんかに構わず自らそう動くべきだったのよ。勇一郎様と共に家を守り、友人との縁を大事にし、周りにいてくれる人に感謝するべきだったの。そうすれば、あなたの幸せに力を貸してくれる人も現れたかもしれないのに」
「ぅる……ざぃ……ぃ」
「見なさい、茜。今あなたに向けられている目が、今まであなたがやってきたことの答えよ」
「――っ!」
軽蔑、嘲笑、憐憫、憤懣、憎悪――ありとあらゆる茜を責め立てる目が、彼女に注がれていた。
「ぅ……ぅうぁ、やめ……いやぁ……っ見な、でよ……っ」
茜はゆるゆると頭を振り、視線から逃げるようにずるずると後退っていたが、打ち掛けの長い裾を踏んでしまい、どだんっ、と大きな音を立てて転げた。
しんとした会場の中で、床に膝をついた四人のぼそぼそとした後悔の声だけが、音だった。
「さてと、決着はついたな。それじゃ、俺らも片付けだ」
席から立ち上がった桑田が、「おい」と部下に顎先で合図を出すと、部下達は即座に茜を拘束した。
「や、やだっ、何、なんなのよ……!?」
「お家に帰るんだよ」
「ぃ、いやよ……あんなドブ底みたいな場所!」
「つれないこと言うなよー、同類だろう」
「違う……っ! あたしは――」
「綺麗なべべ着たって、お前の中身はドブ臭ーいドブネズミのままなんだよ。残念」
茫然自失となった茜は、部下に後ろ手に掴まれ、されるがまま引っ立てられる。
桑田は戸惑いを滲ませた茜の顔を、頬を潰すように強引に掴むと、自らの顔を近づけた。
「情報を外に漏らすってのは、花街最大の禁忌だ。それを、漏らすどころか大事な大事な金づる――いや、お客様の脅迫に使うなんてなあ……とても見逃せたもんじゃねえよ」
二人の顔の距離が近すぎて、千代のいる場所からは表情は窺えなかったが、茜が「ヒッ」と喉を鳴らした後、彼女の膝が抜けた。
しかし、取り囲んでいた部下に素早く支えられ、床に崩れ落ちはしなかった。
桑田を先頭に、ぞろぞろと部下達が会場を出て行く。
茜も引きずられるようにして、会場か連れ出されていた。
「それじゃあ、めでたい席に邪魔したな。今後とも花街をご贔屓に」
もはや、誰もここがめでたい席だったことなど覚えていないというに、あえてそう言う桑田はやはり皮肉がきいていた。
次、終章(ラスト3話です)




