茜の中身
「ハッ! 負け惜しみですかぁ、お姉さま? ああ……お義兄さまの会社が大変ですものね。無駄遣いはできないからって、そうやってご自分を慰めてるのね……お可哀想」
クスクスと嘲弄を向けてくる茜に、「失礼」と雪人が言葉を挟んだ。
「面白いことを言いますね。確かにこれも銘仙だが、使っている糸は高品質の絹紡糸だ。そちらのクズ糸のものとは違いますよ。むしろ千代の着物のほうが高い。それに、この太縞は『新立』と呼ばれる流行りの柄ですが」
「もしや、ご存知ない?」と、雪人は茜の高くなった鼻先を、完膚なきまでに丁寧にたたき折っていた。
そして、羞恥か怒りかで震える茜をそのままに、雪人は次に勇一郎へと顔を向ける。
「もしかして二井様は、女性へ贈り物をされる時に、相手に似合うかどうかよりも金額の多寡で選んでいるのですか?」
「貴様……っ!」
カッと、勇一郎が激憤に顔を赤黒くしても、雪人は喋るのを止めなかった。しかも、まるでそれこそ人当たりの良い店員のように、微笑みを保ったままだ。
「身につける物はその人に似合ってこそですよ。それに、価値のわからない者に高価なものを買い与えても、豚に真珠だ」
チラッ、と雪人の視線が茜へと一瞬だけ投げられた。
意味を悟った茜が、口をハクハクさせている。
「ほら……私の妻は、実に清楚で端正な顔立ちと雰囲気ですから、ごちゃごちゃした派手な柄よりも、こういった粋な柄のほうが彼女の美しさが際立つんですよ」
千代は『思った以上に言うな』と思いながら、雪人の表面だけ穏やかな口撃を黙って聞いていたら、彼に突如肩を抱き寄せられた。
「もし、あなたの婚約者時代に妻が地味だったというのなら、それは、妻の美しさを引き出せなかった二井様のせいかと。女性を輝かせるのも男の器量次第ですからね」
「この、平民風情が……っ」
雪人は笑っていたが、その笑い声は実に寒々しく聞こえた。
これほどに好戦的な雪人ははじめて見る気がする。止めようかとも思ったが、前回のこともあるし、色々と彼も勇一郎には思うところがあるのだろう。これくらいは言い返して当たり前だ。
すると、そこで会話を遮るような、「そうだ!」という茜の大きな声響く。
「来月、やっと勇一郎さまと結婚するんです。招待状は行ってるわよね、お姉さま。そうしたら、清須川家は次期当主である勇一郎さまと妻の私のものだから、お姉さまは二度と戻ってこないでくださいね。やっぱり、夫を誘惑した姉には敷居を跨いでほしくないもの」
雪人が額に青筋を立てていたが、千代は笑みを絶やさず「わかったわ」と頷いた。
「必ず出席させてもらうわね」
「待ってるわ、お姉さま。あ、でもお金で困ってるのなら無理しないでくださいね」
「お気遣いありがとう、茜。でも、自分のほうを心配したほうが良いと思うわ」
茜はきっとまだ気付いていない。
彼女が上手くいったと思っている水面下で、何が動いているのか。
自分達が今先ほどまでどこを訪ねていたのか、まったく予想すらしていないのだろう。
「なんのことかしら、お姉さまったら」
「仮にもあなたの姉だった私からの、最後の忠告よ。今すべてを自ら明かして謝れば……最悪は免れるかもしれないわ」
「ふふ、やですわぁ、証拠もないのに」
千代は不思議と、同情心はわかなかった。
茜は勇一郎の腕を引っ張り、雪人の横をすり抜けていく。
すれ違いざまに、茜は雪人の腕に自らの腕をするりと蛇のように絡ませた。右手で勇一郎と腕を繋ぎ、左手で雪人と絡む姿は、彼女の欲の深さを表しているように見えた。
「ね、お義兄さま……もう一度、じっくりと考えてくださいね? 私なら、家も会社も助けてあげられますから。祝言の日までは待ってあげますよ」
彼女はボソリと艶声で言葉を残すとまた、するりと腕を解き、惜しむように指先を雪人の手に絡ませて去って行った。
「……君の妹じゃなければ、地面に転がしていたな」
「本当、すみません」
雪人は茜と指が絡んだ左手を、忌々しいものでも払うかのように、パッパッと振っていた。
あれだけ綺麗な妹に迫られているのに、本当に彼はまったく興味がないようだ。
実はそれが嬉しいと言ったら、性格の悪い女だと思われるだろうか。
「千代、上書きしてくれ」
当然のごとく差し出された左手を見て、千代は「はいっ」と笑いながら彼の手に指を絡めた。
きっと彼なら、なんと言っても受け入れてくれるのだろう。だから、このちょっとだけ醜い感情は、自分の中に留めておくことにする。
彼には可愛い妻と思われていたいから。
◆
三月中旬――薄紅色の桜の花が霞のように咲き誇る中、茜は無事に女学校を卒業した。
「清須川さんが一番のりね。二井様と幸せになってね」
「披露宴は東京の帝国ホテルなんでしょう? 羨ましいわあ~」
「そうですね、一週間後に」
羨ましいの大合唱に、茜は心が満たされていくのを感じていた。
「二井子爵も父もせっかくだから豪華にしなさいって……私はあまり大きいのは恥ずかしいからって言ったんですけど、勇一郎さまも是非にと……」
桜の木の下で、別れの時間まで皆が最後の歓談を楽しんでいた。
この先はどうするのだとか、東京に戻るのかだとか、将来の話にも花を咲かせる。その中で、卒業後時を置かずして祝言を挙げる茜に、話題が向くのは当然だった。
皆が「はぁ~」と羨望に満ちたため息を漏らす。
「愛されてるわよねえ、あ~あたしもそんな殿方に出会いたいわ」
「それに清須川製糸のご令嬢ですもの。やっぱり財力が違うのよ」
「やだっ、長戸さんったらお下品ね」
「この間の婚約舞踏会で二井様を見たけど、格好いい方だったわよね。羨ましいわ」
茜は「いえ、そんな」と口では謙遜しつつ、内心では『当然でしょ』と嘆息していた。
もし、顔が不細工であれば、わざわざ姉から奪ったりしない。
その場合はどうしていただろうか。
千代と旦那は清須川家に住むだろうから、千代を女中代わりにして、旦那はちょっと誑かして、好きな時に金を引っ張り出せる財布にしていたと思う。それで、たっぷりと金を吸い尽くしたら、どこぞの華族令息か実業家を捕まえて出て行っていたのだろう。今思うと、それも悪くなかったかもしれない。
自分のこの美貌と男あしらいの上手さがあれば、簡単にできるだろうし。
「ねえ、清須川さ~ん、二井様のご友人を紹介してちょうだいな」
ただ、やはり勇一郎を千代に渡すのは癪だったから、これで良かったのだ。
「あっ、紹介って言ったら、わたくしはあの方も紹介してほしいわ! 清須川さんのお姉さんの……」
そこまで言って、皆が「ああっ!」と喜声を揃えた。
「旦那様よね。すっごく格好よかったわよね!」
「そうそう! 背がスラッと高くてお顔も凜々しくて、おじさま達と話してる姿見まして!? 笑顔が素敵で」
ほう、と皆が夢見心地の熱い吐息を漏らす。
「それに、お姉さんも優しそうな方だったわね。以前、お姉さんのほうが嫁ぐって聞いてたからどんな方かと思ったら、あんな美男子が相手なら、長女だろうと嫁ぐわよねえー」
「ねー」と唱和が入る。
「で、でもお義兄さまは、その……平民で、それに今、会社が上手くいってないようなんです」
「あれだけ格好いいんだったらなんだって良いわよ」
「お金がないなら、わたくし達は実家が援助しますし」
「いいなあ、清須川さんは。清須川製糸の令嬢で、子爵家の次男坊を婿にもらって、お金にも伝手にも困らない上に、お姉さんは優しそうで、お義兄さんまで格好いいし」
「いいなあ」と口を揃えて言われるのを、茜は「そんな」と笑顔で返していた。
爪が食い込むほど拳を握った手は、袖の中に隠して。
夕食の席で父親に女学校卒業を祝われたが、茜は空返事で適当に相槌を打って、食事を終えるとさっさと自室へと戻った。
「『いいなあ』……ですって。華族のお嬢さまが、あたしのこと羨ましいんだって――ッアハハハハ、笑っちゃうわね」
一番上の人間が、一番下の人間を羨ましがるとは、おかしなこともあったものだ。
清須川茜は士族家の娘で、清須川製糸という横濱では名が通った会社の令嬢である。
美貌も兼ね備えており、他者から見たら非の打ち所のない人間だ。
それが、清須川家に来てから八年かけて作り上げた『清須川茜』という人間だった。上流階級とは言えないが、羨ましがられるのも当然と言えるものだった。
しかし、ひと皮むけば、清須川茜の中身には泥が詰まっている。




