終わりのはじまり
東京から帰ってきて、早ひと月。
その間にも東郷屋伯爵やレオンとの手紙のやり取りは続き、いつの間にか二月も終わりかけの、梅がほころぶ季節になっていた。
千代は、はじめて踏み入った花街に、興味半分恐ろしさ半分といった心持ちだった。
「茜ねえ……」と煙草をぷかりと吹かし、妓楼の女将は灰皿に煙草を押し付けた。
ツンと鼻をつくすえた臭いに、千代は少しだけ顔を俯ける。
雪人の秘書である忠臣が見つけた、茜がいたと思われる店――『扇楼』。
まだ太陽は中天で燦々と輝いている時間なのに、花街は驚くほどに人の気配が少なかった。商店街などには老若男女があふれかえっているのに、花街と呼ばれる区域に入ってからは、各店の女将だろう壮年の女か、買い出し中らしき若い男をチラホラとしか見なかった。
それだけで、ここが千代が普段生きている世界とは違う世界だということが、嫌というほど理解できた。
「ああ、いたよ。十年……いやもう少し前だったかな。朱蝶って娼妓が、客との間にこさえて産んだ子さ」
やはり、本当に茜は娼妓の子だったのだ。そして、源氏名だろうが母親の名前も判明した。朱蝶――それが、茜の本当の母親の名前だ。
「朱蝶はその後、どっかの男と足抜けしちまってね……それで、茜をどうしようかって時に、朱蝶の客だった男が自分の子だって買っていったんだよ」
おそらく、その朱蝶の客だったという男は父のことだろう。しかし、女将の言葉に違和感を覚えた。
「買って……ですか?」
「母親が足抜けして身請け金が入らなかったんだ。娘に背負ってもらうのが常だろ。だから、男には朱蝶と茜の分の身請け金を払ってもらったよ。元より娼妓にするために育ててたんだから、妥当だろう」
使われた金が会社のものだというのは、すぐにわかった。
祖父の時代の貯金の減りが早いと思ったが納得だ。身請け金の相場など知らないが、人間二人を買う金が安いはずがない。
「では、朱蝶さんの客もしくは店の客として、土井侯爵が訪ねてきたことは?」
雪人が話を進める。
「おっと、客のことは何を聞かれてもあたしらは一切喋らないよ。そこが知りたいなら無駄だから帰んな、坊ちゃん」
女将は相手にする気はないとばかりに、視線を逸らし畳の目に詰まった埃を爪でカリカリと掻きだしている。
花街はその秘匿性の高さ故に利用される、ということを考えれば、女将の言うことは当然だろう。しかし、はいそうですかで、こちらも帰れるはずがない。
「茜さんがここで聞いた話を使って、店の客を脅迫してると言ってもですか」
雪人の言葉に、女将の横顔が強張った。
さらに、雪人が土井侯爵や正金銀行の関係者など、茜と繋がっていると思われる者達の名を上げていけば、次第に女将の顔色が曇りはじめる。
それだけで、雪人も千代も、ここが接点だったのだなと理解する。
「一乗って言ったっけ……あんたら何者だい。ここに何をしに来たんだ」
女将の顔が、やっとまともに千代と雪人へと向けられた。その目には鋭い眼光がチラつき、獣の威嚇にも等しい威圧を放っていた。
しかし、その鈍く光っていた眼光も、次の千代の言葉で変化する。
「私は茜の姉です」
女将は、威嚇から困惑へと表情を変えた。
はじめて女将の顔が、話を聞こうというものになった。
千代は、なぜ花楼を訪ねることになったのか、勇一郎の婚約破棄からはじまる姉妹の確執を話した。その間、女将は口を挟まず、時折浅く頷きながらじっと耳を傾けていた。
そうして、つい先日やっと茜が娼妓の娘だとわかり、本当か確かめるために店を探して訪ねたのだと言えば、彼女は「なるほど」とやっと相槌を打った。
「茜のことを聞きに来たってのは本当のようだね。ひとまず、あんたらの話は信じよう」
ほっとした。
気の緩みが伝わったのか、女将が片口を上げて小さく鼻で笑う。
「随分と素直な子だねえ。そんなんじゃ、この世界では生きてけないだろうさ」
「ご安心を。生きさせるつもりもないので」
守るように雪人は千代の前に腕を伸ばし、間髪容れず女将の言葉を否定した。
これには、女将だけでなく千代も目を丸くしていた。
千代でも彼女が本気で言っているわけではないとわかるのに、察しが良い雪人がわからないはずがない。話を聞きに来ているのに、わざわざ角が立つような言動は危ないのではと思っていると、女将が「ふふっ」と肩を揺らしているのに気付いた。
「そりゃすまなかったね、旦那さん」
「いえ、こちらこそ」
女将がチラと千代へと視線を向けた。
「愛されてるねえ、奥さん」
一瞬なぜそう言われたのかわらなかったが、女将が片目を瞑ったのを見て、雪人が嫉妬したのかと気づき顔が熱くなった。
何もこんな状況で妬心を抱かずとも、と千代は頬を両手で押さえ俯いた。
そんな千代を見て、また女将はしばらく渋るように喉で笑っていたが、それが収まると「ふう」と区切りにひと息吐く。
「姉はこんな素直なのに茜の奴は……ここで育ててやった恩も忘れて、後ろ足で砂掛けるたぁ、随分とお行儀の良い育て方をしてもらったじゃないか」
すると女将は居住まいを正し、畳に指をついて頭を下げた。
「知らせてくれて助かったよ。花街は女の色で成り立ってるって思われがちだが、実際は信用がすべてなんだ」
頭を上げた女将は口角を下げて、眉間に皺を寄せていた。
「何も知らないままだったら、遠からずうちの店は潰れてただろうさ。いや、うちだけじゃない。ゆくゆくは関外花街にまで悪影響が出てただろうね」
東郷屋伯爵も同じことを言っていた。秘匿性は花街の根幹であり義務なのだ。
女将は「絶対に店が言ったとは言わないように」と前置きしながらも、雪人が先に出した者達は確かに扇楼で、しかも、かつて茜の母――朱蝶の客だったことを認めた。
「これは、扇楼だけの問題じゃないね」
「ちょっと待ってな」と言って、女将は席を立つと部屋を出て行ってしまった。
待つこと二十分程。
女将はひとりの男を伴って部屋に戻ってきた。
茶鼠色の着流しを、少しばかり着崩した男。後頭部に撫でつけられた髪は黒々としていて若々しい印象があるが、目尻に刻まれた烏の足跡を見るに、四十くらいだと思われた。垂れた目に埋まる黒い瞳はどこか無気力そうで、光りなど見えない。だが、油断して手を出した瞬間に、目を輝かせて手に食らいつきそうな、どこか危険な雰囲気がある。
「関外花街の自警団頭の桑田って男だよ」
女将は彼のことを紹介したが、おそらく一般的な自警団ほど生やさしくはないに違いない。男の頬に入った大きな切り傷がそれを物語っている。
これが、雪人が言っていた後ろについている者――博徒なのだろう。
「女将さんから話は聞いたぞ。あんた達にゃ、女の教育不足で迷惑かけたなあ」
ハハッと、脱力したようにふにゃりと笑う顔は、一見すると温厚な者に見える。
「それじゃあ、さっそくだが茜の居場所を教えてもらいたいんだがね、お嬢ちゃん」
しかし、やはり掛けられた声には、頭を押さえつけるような圧がある。
思わず千代は視線を俯けてしまった。
善路や近衛侯爵に会った時とは違う。目の前の者は、おそらく大抵の者が持つ一線というのを、簡単に飛び越えるのだろうなと思えた。未知を前にして、千代の喉に痙攣してしまい、声が引っ掛かって上手く出てこない。
「何をするつもりなんでしょうか」
すると、千代の声がでないことを素早く察した雪人が、会話を自分のほうへと引き寄せた。男は、千代でも雪人でも構わなかったようで、瞳を滑らせて雪人を見た。
男からの視線がなくなっただけで、千代の身体は安堵に緩む。
「そりゃ、花街の御法度を破った娘には、相応に責任をとってもらわなきゃならねえ」
「その責任を取らせるのを、少しだけ待ってもらえますか」
「はあ?」
男の眉が蛇がうねるように、大きく波打った。声には険が滲んでいる。




