家族
「強いな……千代は」
「雪人さんが絶対いてくれると思えるからです」
千代は頬を撫でる雪人の手に自らの手を重ね、少しかさついた彼の手に頬をすり寄せた。
冬の寒空の下でも、寒くはなかった。
胸の内がぽかぽかする。きゅうと心臓が縮み、トクトクと鼓動が早まる。
「雪人さん……私、生まれ変わってもまたあなたの妻になりたいです」
自然とそう思った。
この手を離したくない。自分以外の誰にも触れてほしくない。こんなわがままになってしまった自分を、彼はそれでも良いと言ってくれるだろうか。
目線を上げれば、涼やかな目元が梅が咲いたように赤く色づいている雪人の顔があった。
見開いた目は、旭光が朝霜を照らすように、キラキラと輝いている。
愛おしい――自分の言葉ひとつひとつに表情を変える夫が、とても愛おしかった。
「この結婚のはじまりは、自由なんてものとは違ったかもしれません。だけど、あなたを愛したのは間違いなく私自身です。きっと何度生まれ変わったって、私はまた絶対に雪人さんを愛するんだと思います」
千代の頬に触れていた雪人の手は、そのまま奥へと滑り千代の後頭部を抱き寄せた。同時に、もう片方の雪人の手は腰に回され、離さないとばかりに抱き締められる。
「……君と出会えて良かった、千代」
「私もです」
雪人の広い背中に、千代はそっと手を回した。
肩口にうずめられた雪人の顔を見たいと、首を捻ってみるが、しっかりと埋められた彼の顔は中々見えない。
「見ないでくれ……君の前では、格好いい男でいたいんだ」
「どんな雪人さんでも全部大好きですよ」
その後、二人は京橋区にある高島屋で買い物を楽しんで、横濱へと戻った。
高島屋では、雪人が千代に着物や洋服を当てては「似合う」と言って、次々に買っていくものだから、店員も千代も苦笑しっぱなしだった。
◆
横濱に帰り着いて、真っ先に雪人が向かった先は屋敷ではなかった。
駅に迎えに来ていた実富に千代を任せ、雪人は帰り着いたその足で会社へと向かった。
一乗汽船の社員達は皆、雪人が東京へ行っている間、ずっと不安な心持ちで待っていたのだ。早く融資問題が解決したことを知らせなければならなかった。
案の定、不安げな顔で雪人を迎えた社員達は、近衛侯爵から融資を取り付けられたことを知ると、皆一様に安堵の表情を浮かべて口々に良かったと言っていた。
そして、雪人が会社にやって来た理由はもうひとつあった。
瀬古忠臣が社長室にやって来ると、拙速に雪人は用件を口にした。
「臣、茜さんがいた花街の店を探してくれ」
「はぁ?」と忠臣は片眉を上げていたが、すべてを話せばすぐに「なるほど」と納得した。
「やっぱり、玄人女だったんすね。自分の嗅覚も捨てたもんじゃないっすわ」
どやっ、と忠臣は鼻を親指で弾いていた。
「美人局を見破る時くらいしか使い処がないな」
「ひっど! もっとありますよっ」
多分、と語尾に小さく付け足した忠臣に、雪人は顔をクシャッとして笑った。
「その女中頭の言うには、関外の花街だったのは間違いないと」
「関外花街だと、七十軒くらい店がありますね。茜さんが清須川家に来たのって何年前ですっけ」
「八年前だったかな」
「まあ、だったら残ってる娼妓もいるでしょうし、聞き回ったら見つかりそうですね。自分の花街遊びも、捨てたもんじゃないですね」
「悪いな、いつも」
「社長の私費で夜遊びできるんですから、こんなおいしい仕事はないですよ」
シシッ、と悪戯小僧のように酒を飲む素振りをして笑う忠臣に、雪人は肩を持ち上げて背後にあった執務机に腰掛けた。
「昔から、俺はお前に頼ってばかりだな」
丁稚のようなかたちで一乗家に引き取られたからか、忠臣はいつも雪人の傍にいた。
文字を知らなかった忠臣と一緒に本を読み、机を並べ、中学校にも一緒に通った。悪いことやる時は必ず一緒で、父親に叱られる時ももちろん一緒だった。
忠臣が自分のことをどう思っているのかは知らないが、自分は家族だと思っている。
千代が血よりも縁のほうが大切だと言っていたが、言葉の意味がよくわかる。
血なんか繋がっていなくとも、血よりも濃い関係になれるのだ。
「それが自分の役目ですから。一乗家が迎えてくれたあの日から、自分は絶対の忠誠を誓ってるんでね。でないと、きっと自分は今頃、ごろつきになっていたと思いますし」
「忠誠って……また、武士みたいなことを。時代遅れだぞ」
「良いじゃないですか、士族。やりたい放題できて」
どこの士族を皮肉っているのか丸わかりで、二人は顔を見合わせて冷嘲を浮かべる。
「さて、俺ももう一度正金銀行でも訪ねるか。頭取か副頭取かどっちかわからないが、素直に喋ってくれると楽なんだがなあ」
雪人はやれやれとばかりに腕を回した。
「あ、お前、まだ千代に会ってないだろ」
部屋を出て行く忠臣に、雪人は思い出したように声をかけた。
「あー……いえ、自分はいいっていうか」
「忠誠を誓った主人の妻君には会えないと?」
執務机から下りて、雪人は扉の前で止まっていた忠臣の肩に腕を乗せた。
忠臣は、顔を雪人とは反対側に向け、後頭部をガシガシと掻き乱している。
「やっぱりその……最初は疑っちゃってたわけですし、なんというか申し訳なくて、顔が見られないわけでして……」
そんなことだろうと思った。
「律儀な奴だ」と雪人は忠臣の頭をはたいた。「あだっ!」と忠臣が頭を押さえる。
「社長命令だ。全部片付いたら千代に会ってもらうぞ。お前が会わないと、家族の顔合わせがいつまで経っても終わらないんだよ」
頭を押さえながら「家族……」と間が抜けた顔で呟く忠臣を、雪人は「ほら、行ってこい」と部屋の外に蹴り出したのだった。
次回から最終パートです




