愛だの恋だの
千代が屋敷へと入ったのを尻目で見届けると、茜の顔からは笑顔が剥がれた。
「…………はぁ?」
不幸になる結婚をさせてやろうと思ったのに、なんだこれは。
せっかく顔も良く、華族出身で金もあるという勇一郎を自分のものにして、姉には、誰だかわからぬ老いた平民の後妻という座を用意してやったというのに。
「あんな格好いいなんて話が違うわよ……っ」
噛みしめた奥歯がギリッと軋む。
勇一郎など芋に見えるほどに雪人は美しかった。しかも、金も持っているときた。あの結納品の数々、思い出しただけで目の下が引きつった。結納金にいたっては、五百円ときた。平民の普通は十円やそこらだというのに、五百円といえば華族の中でも上級の部類だ。
屋敷の前を通り過ぎる通行人が、門の内側を見ては「ヒイッ」と小さな悲鳴を漏らして足早に去って行く。
親指の爪に歯を立てる茜の顔は夕陽に照らされ、赫怒した鬼のような形相であった。パキンッ、と爪が噛み砕かれる。茜は口の中の異物をプッと地面に吐き捨て、草履で踏みにじった。
「……所詮あの男も平民よ。世の中、強いのは地位と金両方持ってる者なのよ」
しかし、あの顔だ。自分の愛人くらいなら、ちょうど良いだろう。
「お姉さまみたいな地味な女、きっとすぐに飽きるわ。そうしたら……ふふっ」
皆、隣の芝生のほうが美しく見えるものだ。
◆
雪人は、車窓から流れる景色をぼうと眺めていた。いや、眺めてすらいない。目に映しているだけで、頭の中にはちっとも景色の情報など入っていないのだから。
今、彼の頭の中を占めているのは、ひとりの女性――千代のことだった。
「……あり得ない……っ」
ぼそりと呟くと、雪人は目元を手で覆い、窓に肩をもたせかけた。
彼はため息を吐いてはいるものの、そこに憂鬱さはない。
むしろどちらかというと、高揚しているようだった。
「あり得ない……彼女が俺の妻になるなんて……本当なら死にそうだ。いや、夢か……?」
隣に座る実美が首を捻っていたが、雪人の「あり得ない」は止まらない。
「実富さん、清須川家で何があったんすか? こんな社長、自分、はじめて見るんすけど」
前のシート――運転席にいた青年が、チラと視線を実富に寄越し尋ねた。
青年は瀬古忠臣と言い、雪人の公私を支える秘書である。雪人の父親にとっての実富と同じ立場だ。
「それが、わたくしにもさっぱりでして。結納の時は、特に変わったご様子はなかったかと思うのですが……」
「社長ー、何があり得ないんですか? やっぱり、相手が噂通りの悪女でもう魅了されちゃったとかです? そんな美人でした?」
ピタッと雪人の呟きが止まった。
「え?」
「え?」
雪人と忠臣が同じ言葉を重ねた。
そうして、やや間があって、しまったと言わんばかりの声が雪人の口から漏れる。
「……噂のこと忘れていた」
雪人は、前髪をくしゃりと握り込むと、両脚の間に「はぁー」と長いため息を落とした。
「ええー!? あんな強烈な噂を忘れるって、どういうことですか!?」
「仕方ないだろう。五年も忘れられなかった相手だぞ。彼女を前にして、噂のことなんか思い出しもしなかったよ」
「はぇ~、あれだけ女性に見向きもせず袖にしまくっていた社長が……」
この結婚は、もとより雪人が望んだものではない。
父が倒れたことで予定より早く会社を引き継ぐことになり、その際、父に「仕事に打ち込むためには、家を守ってくれる者が必要だ」と、結婚を勧められたからだ。今までにも縁談の話はいくつもあったし付き合ったりもしてきたが、どの女性にも興味はわかなかった。顔すら覚えていない。まあ、仕事が楽しかったというのもある。
しかし、父が倒れ、そうもいっていられなくなった。だからといって自ら動く気にもなれず、見かねた父が代わりに動いたという流れだ。
一応、父には希望として、横濱で事業を展開していくにあたって、利になる家がいいと伝えた。どうせ結婚など家のためのものだ。元より、結婚というものに恋だの愛だの求めていない。
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