もしかして、一乗家ってすごい?
だから茜にとって空はずっと青色ではなく、自分の名前と同じ茜色のものだった。
姉がたくさんいた。姉と言うには年が随分と離れていたが、母以外は全員姉だった。
そこで茜は色々と学んだ。見た。聞いた。
化粧の仕方も、声の抑揚の作り方も、表情の作り方も、目線の残し方も、肌の重ね方も、嬌声のあげ方も、男が何を求めているのかも、男の言うことのきかせ方も、どうしたら口の滑りを良くできるのかも――全部全部そこで学んだ。
頭でではない、身体がもうすべてを覚えていた。
加えて、脳に入っているのは『女の使い方』だけではない。色々と聞いた中には、母や姉達が客から聞いた話も含まれていた。そして、そういった話は大抵、公にできないような悪どいものばかりだった。なぜそんな話をわざわざ女にしに来るのだろうと疑問だったが、誰にも話せないからこそ花街の女に言いに来るのだろうな、と次第に理解していった。
だって、花街の女は同じ女にも蔑まれ、花街でしか生きていけない囲いの中の鳥も一緒だから。安全な唾吐き場だ。
夕方になって起きだしてきた姉達は、茶請け話に昨晩の座敷や寝床での話をよくグチグチ言っていた。
多分、自分は頭が良い。
同じ年の子よりも、話の内容を理解するのに時間はかからなかった。
おかげで、土井侯爵を操るのは簡単だった。土井侯爵だけではない。伯爵も子爵も成金も銀行の副頭取の林も簡単だった。あの頃聞いた話をバラすとチラつかせれば、皆顔を青くして「それだけは」と懇願してきた。
すべてが、自分の操り人形だった。
そいつらを使って、一乗汽船の状況を聞き出せば、なぜかいくつかの華族から融資を受ける話が進んでいると言うではないか。
自分が持ちうる人形の中で、一番権力がある土井侯爵を使い、融資をしようなどと考えた愚か者達に圧力を掛けさせた。
「きっと、お義兄さまは、私が何かしら裏で糸引いてるって気付いてるわね。勇一郎と違って賢いもの」
そんな男が、自分に懇願する姿を想像するだけで、鳥肌が立つほどに気持ち良かった。
自分が関わっていることを知っていても、どうやって土井侯爵や林達と繋がったかなど、絶対にわかるはずがない。
父も、絶対に自分の生い立ちは口にすまい。
父の他に知っている者は、千代の母親とその老女中しかいなかった。それも、母親は病気で死に、老女中はクビにしてやった。今頃死んでいるだろう。
「全部ぜぇーんぶ、お姉さまが悪いんだから」
綺麗な世界で生きてきた姉も、母の身代わりに傍に置く父も、花街の女だと下に見てきた者達も、全部全部自分に跪けばいい。
金も手に入れ、血も手に入れ、華族との繋がりも手に入れ、良い男を侍らせ、最後に笑うのは自分だけだ。
◆
その日は朝から東京を走り回った。
まさか近衛侯爵に会うことになるとは思っておらず、それどころか東郷屋伯爵ですら予定外であり、正装を持ってきていなかったのだ。千代は着物姿なのだが、正装と呼べるほどのものではない。雪人も同じくスーツではあるのだが、正装とは呼べない。
朝から日本橋にある白木屋呉服店へと赴き格好を整え、あとは手土産をという状況だった。
(日本橋っていえば、確か榮太樓總本鋪があったはずで……)
ナリや桂子はどこからか仕入れた流行りの店の情報に詳しく、必然的にこういった菓子商や百貨店にも詳しくなってしまった。
『さて、どんな菓子を手土産にしようか』と考えていたのだが、突然、雪人に「千代、こっち」と手を引かれた。
町家造りの商店が並ぶ大通りを、手を引かれながら人の流れに沿って進んでいくと、いきなり和風の建物が洋館へと切り替わる。横濱とはまた違った和洋折衷の街並みで見ているだけで気分がワクワクした。
千代が目の前にどどんと現れた、背の高い赤煉瓦造りの洋館を「わぁ」と眺めていると、雪人は「おいで」と言って、なんとその建物の中へと無遠慮に踏み込んでしまった。
「えっ、えっ!?」と、千代は首をすくめて辺りを見回すが、雪人は千代の戸惑いなど気付いていないように、ズカズカと進んでいく。
洋館はどこからどう見ても、店ではなく会社だ。表に掲げてあった看板にも『通商』の文字が見えた。間違いなく普通の人が買い物をするような商店名ではない。
「ゆ、雪人さん! これはまずいのでは!?」
「大丈夫だ、安心して付いておいで」
廊下を抜けて広い部屋に出たが、そこではスーツ姿の男達が机に向かって真剣な表情で何かを書いていたり、難しい顔をした数人が立って話していたりと、自分達の場違い感がすごかった。
すると、一番近くにいた男が千代達の存在に気付いた。
ハッとした顔になって、ツカツカと早足で近寄ってくる。
怒られてしまう、と千代が目を閉じた時。
「一乗さん、お久しぶりです」
「へ?」と千代は恐る恐る目を開けた。
すると、男のひと声に気付いた他の者達も、一斉に席を立ち「お疲れ様です」と挨拶を口にする。
どういうことだ、と千代は顔いっぱいに疑問符を貼り付けて雪人を見上げれば、彼は悪戯が成功した少年のように、ぷっと小さく噴き出した。
「ごめんごめん、驚かせたな。ここは東京にいたころに働いていた会社なんだ。一善通商って言って、一乗汽船の母体って言えばわかりやすいかな」
「そ、そういえば、そんなことを言っていたような……」
東京の会社は親族に任せているとかなんとか。
千代は思わず呆気にとられていた。
そこへ、奥からやって来た壮年の男が「雪人君」と喜色の滲んだ声をかけてくる。
「どうしたんだい、連絡もなしに。部下が言いに来てくれて驚いたよ」
「すみません、叔父さん。ちょっと自分にも予定外だったもんで」
壮年の男は、雪人の叔父のようで、やはり雰囲気がどこか似ていた。
眼鏡がよく似合う柔和な顔立ちに、洗練された凜とした空気を纏っている。
男は雪人の陰にいた千代に気付くと、目を瞬かせ「もしかして、そちらは」と頬を緩めた。
「妻の千代です。奥ゆかしく可愛い性格なので、どうぞちょっかいは出さないでくださいね」
なんという紹介をしているのだと、千代は顔を赤くしながら腰を折ったのだが、同時に「ぶはっ!」と盛大な吹き出し音が聞こえた。
男は腹を抱えて声も出ないと笑っていた。
「ひぃーーーーひひっ! 雪人君が女性に対してそんな甘い台詞を吐くなんて! 明日は槍が降るぞ、皆!」
「では臨時休業ですね」「早めに退社しましょう」と方々から、慣れたような相槌が飛んでくる。それに対して「槍が降っても刺されながら来るんだよ」と返す男に、千代の緊張も和らいだ。
「失礼したね。僕は雪人君の叔父で、今は一善通商の代表をやっている一柳省吾という者です。祝言には行けずにすまなかったね。これからよろしく」
一柳は「立ち話もなんだし」と、上階へと千代達を案内した。
話を聞けば、叔父だと言っていた一柳は雪人の母親の弟ということだった。母親は雪人が幼い頃に亡くなっており、千代は彼女の姿を知らなかったが、きっと一柳のような、見た者をほっと息を吐かせるような、柔らかい顔をしていたのだろうなと思った。
それにしても、以前、横濱にある一乗汽船を訪ねた時も大きい会社だなと思ったものだが、こちらはその倍以上は大きかった。社員の数もざっと部屋を見回した限り、桁が違うのだろう。
(お父様は田舎者とか名前を知らないとか言ってたけど……もしかして、一乗家って東京じゃ有名なんじゃ……)
通された社長室も、洋室に和風の焦げ茶色の調度品が溶け込んだ、豪華で見事な和洋折衷だった。
「それで、いきなり訪ねてきた理由は?」
「実は午後から近衛侯爵を訪ねることになりまして、その手土産を探したいなと。ここなら、珍しい洋物があるかと思いましてね」
「おおっ、近衛侯爵かい! それはそれは……美味しい話があればぜひ」
通商ということは、売買の仲介会社なのだろう。しかも洋物――海外の品の取り扱いがあるのなら、貿易もやっていると推測された。海外と貿易ができる会社は限られており、やはり一善通商という会社は、外観通りに大きな会社なのだろう。




