クソが……
月を隠している暗雲と同じように、部屋の中も暗雲が立ちこめたような空気の重さだったのだが、仲居が新たな料理を運んで来たことで空気が改められた。
開いた襖から、重い空気は走るように抜け出し、代わりに仲居達のハキハキとした掛け声まじりの空気が入ってきて、随分と雰囲気が軽くなる。
「とりあえず、確定と言える証拠はないし、彼女の件をこれ以上ここで話し合う必要もないだろう。せっかくの食事が不味くなる。それよりも、君たちが喜ぶ話をしよう」
「あっ、そうそう、本題はそっちだった」
甘い出汁が利いた卵焼きをひと口に頬張りながら、レオンが指を鳴らした。
もぐもぐと膨れた頬が動き、ゴクンと喉が上下した。
「君に紹介したい方だけど、実はもう予定は取り付けてあるんだ。僕と東郷屋伯爵も一緒に行こうと思って」
「それは、むしろこちらからお願いしたいくらいだが……元より相手は誰なんだ」
「近衛侯爵だよ」
「こっ、近衛侯爵!?」
雪人が驚くのも無理はなかった。
近衛侯爵といえば、血を辿れば皇族の出であり、貴族院議長を務めているほどの国政にも通じた実力者である。ただの侯爵家とはひとつも二つも違う存在であり、政治に関与できない女の千代ですら、その名を知っている。
最初に、東郷屋伯爵が気難しい人だと言った理由がわかった。
「よ、予定はいつなんだ?」
相手の名前を聞いて、珍しく雪人が動揺している。驚きのあまり顔が険しくなっている。
舞踏会では、緊張はしていただろうが、自ら笑顔で華族に話しかけていたというのに。
対して、家庭教師だからだろうか、レオンは「んーとね」と、まるで友人宅に雪人を誘っているかのような気安さだ。
「明日だね」
「明日!?」
「うん、明日の午後二時だよ」
「千代……明日は朝から忙しくなるぞ」
「そうですね、精一杯お手伝いいたします」
ずるりと座椅子の背に、力なく身体を預け天井を扇いだ雪人を、千代だけでなく、東郷屋伯爵とレオンも笑って眺めていた。
◆
それは、千代が清須川家を訪ねた日の夜。
「え? お姉さまが来てたんですか?」
「ああ」
父はただの報告だとばかりに、それ以上はこの話題を続ける素振りはなかった。夕食に箸をのばし、静かに食べている。
「そ、それで、お姉さまは何をしに」
結婚以来、姉が清須川家に戻ってくるのははじめてだ。戻ってくる理由がわからない。何か忘れ物があったのだろうかと思ったが、それならば結婚して数ヶ月も経った今というのもおかしい話だ。
(紗江子がヘマをして使えなくなったのが痛いわね。一乗家が今どうなってるかわからないわ)
雪人の会社――一乗汽船については、知り合いの華族に聞けば、懸命に情報を集めて寄越してくれるから問題ないのだが、やはり家庭内というとそう簡単にはいかない。
別に姉が何をしようと構わないが、というより、姉などどうせ何もできない人だが、蠅が自分の周りをうろついているのはいい気はしない。
「別に、私の様子を見に来ただけだ。安心しなさい、金も何もあの娘には渡していないから。あれは、もう清須川の娘ではなく痴れ者の娘だ」
(金……)
もしかしたら、ことごとく融資を断られて実家に金の無心に来たのかもしれない。一乗家からもらった結納金は、白無垢を買った他にはまだ手をつけていなかったはずだ。それを返せとでも言ったのだろうか。
(冗談じゃないわ。あれは、あたしの為に使われるべきお金なんだから)
姉とは違い、自分は華族の令息と結婚するのだ。うんと豪華にしなければならない。あんな、婚家でこぢんまりとした古臭い祝言など誰がやるものか。
「はぁ……平民に嫁がせたからか、以前よりも愚かになりおって……この間の舞踏会では、危うく清須川家に泥を塗られるところだった。とんだ娘だ」
注いだ酒を忌々しそうにグッと一気に飲み干す父に、茜はコロッと声音を変えた。
「本当にぃ……お姉さまったらひどいです。いくら勇一郎さまに未練があったからって、何も婚約発表の場であんな下品な真似を……っ。私、勇一郎さまを探して部屋に入ったら、まさかお姉さまがあんな……ぅうっ」
茜は、着物の袖を掴んで、目に押し当てた。目から拭うものなど出て来るはずもないのだが、これだけでも充分この父には通用する。
「可哀想に……あの子はお前に嫉妬していたんだろうさ」
ほら。
「でも、元はといえば勇一郎さまの心を奪ってしまった私が悪いんです。だから私、本当は誰にも言うつもりはなくて……でも、ホールに戻った私が我慢できず泣いているのを、二井子爵様が気付いてくださって……っ」
本当は、ホールで大げさに泣きわめいて、もっと大ごとにしてやりたかった。だが、誘惑されていたとするのが自分の婚約者であれば、やはりそこは躊躇われた。
とはいっても、勇一郎の評判が下がることを懸念しているわけではない。そんな、女の誘惑を受けるような男と結婚した、と自分が思われるのが嫌なのだ。あの場には、女学校の友人達も来ていた。ああいった、生まれながらにすべて持っている女に憐れまれるのなどごめんだ。
「あぁ……こんなに花のように可憐で、華族の令息にも愛される心の美しい女性は、横濱中探してもお前くらいしかいないだろうな」
父の顔を手の陰から見れば、眉を下げて憐れとばかりに目をすぼめている。
(……ばっかみたい)
昔から思っていたが、この父は簡単に騙されてくれる。それこそ馬鹿みたいに。
「そうだ、お父さまぁ。新しい着物が欲しいんですけど……紺地に紅色のカノコユリ柄が綺麗で」
「ああ、大人っぽい柄でそれはいいな。お前ももうすぐ卒業だし、似合ったものを身につけないと。今度一緒に買いに行こう」
「お父さま、ありがとうございます! 嬉しいっ」
両手を顔の近くまで持ってきてしなを作り、満面の笑みを返す茜に、父親は満更でもなさそうに大きく頷いていた。
酒をあおる父の目が、茜の袖に留まる。袖には大きな紅白の菊が描かれている。
「本当に……お前には艶やかな花柄の着物がよく似合うからなあ。朱蝶――お前の母を思い出すよ」
ヒクッと茜の口端が痙攣したのに、父親は気付かなかった。
「皆が朱蝶に夢中だった。弾けば三味線の音色に聞き惚れ、舞えば袖の揺蕩いに目を奪われ、話せば笑いがおこり、抱けば朝の別れがつらくなるようないい女だった。泣きぼくろが色っぽくてな、あの目に見つめられて落ちない男はいないとまで言われて」
「お父さ――」
「だが、私が手に入れた。華族の連中もどこぞの金持ちも、結局、最後に朱蝶が選んだのは私だったのだ! アッハハ愉快至極!」
猪口からこぼれているのに、まるで祝い酒のようにドポドポと徳利から注ぎ続ける父に、茜は冷めた目を向け、静かに席を離れた。
自室に戻った茜は、雑に帯を解き着物を脱ぎ、畳に叩きつけた。
「はぁっ、はぁっ……ックソが」
薄紅色の襦袢姿になった茜は肩で息をしながら、悪態を吐いた。
母に似ている、だと。
最悪だ。最低だ。
チラと横を向くと、布を下ろし忘れた鏡台に、襦袢姿の自分が映っていた。
襦袢姿でも、そこらの女には負けないくらい自分は美しい。
茜は鏡へと近付くと、映る自分の顔を眺めながら親指で左目の下を強く拭った。
はげた化粧の下から出てきたのは、黒いほくろ。母も同じ位置にほくろがあった。
大嫌いな者の顔に似ることで、最高の利益を享受できているとはなんとも皮肉なことだと、茜は自嘲した。
八歳で清須川家に引き取られるまでの茜の生活は、決して良いとも普通とも言えなかった。とはいえ、特に暴力を受けていたわけでも、貧しい思いをさせられたわけではない。
花街という、幼い子供には良くない環境だったというだけだ。
しかし、そこで育ったおかげで、今はこのように自由に振る舞えているのだから、やはり顔と一緒で皮肉な話だ。
子供の茜が起きるのは、決まって日が暮れだしてからだった。




