不文律
茜が妾の子というのは、表立って口にはしないが皆気付いていたことだ。
身分違いの者――平民だとは思っていたが、しかし、平民でもまさか春を売る者だったとは。
『なので、わたくしは、妾として母親を囲うのも子を養育するのも問題はないが、せめて別宅にしてほしいと旦那様にお願い申し上げたのです。公然として娼妓の娘を家に入れるものではないと』
『もしかして、それを茜が知って?』
『はい。旦那様は茜様の言うことは、なんでもきかれていましたから』
自分の生い立ちを知っているツルヱが邪魔だったのかもしれない。
茜は、生い立ちについては隠している節があったし。
『お母様も知っていたの?』
『ええ。奥様は、旦那様が特定の娼妓の元に通われているのをご存知でした。一度、奥様に頼まれ、旦那様の後をつけたことがありました。そこで、幼い茜様を抱き締める旦那様を見たのです。奥様に報告したところ、奥様は仕方ないと諦められていましたが、それは奥様とは決して交わらぬ別世界のことだったからです』
ツルヱは一度悔しそうに唇をグッと噛み、膝に置いた拳を震わせた。
『それなのに……っ! 数年後、その時の子が旦那様の手を握って現れたのです。絶対に見えない世界だったから、奥様はどうにか耐えることができていたのに……っ。反対することなどできないが、自分との娘よりも娼妓との娘を大切にするのがどうしても許せないと、ずっと奥様は嘆いておられました』
知らなかった。母がそのような感情を抱いていたとは。自分が記憶している母は、何も言わず茜に対しても実の娘の自分と同じように接していた。てっきり、受け入れていると思っていたが、まさか『許せない』と言うほどの感情を抱いていたとは。
(お母様……)
母は、どのような気持ちで亡くなったのだろうか。
夫に愛されることなく、離れに追いやられ、娘の居場所を娼妓の子に奪われて。
さぞ心残りだっただろう。
さぞ悔しかっただろう。
「あなたは自由に生きなさい」――というのが母の口癖だった。
家のために強いられた結婚で、父に刃向かうことも、意見を言うことも、娼妓の子を家に入れないでと言うことも、何ひとつ彼女は自由にはできなかったのだろう。
(自由……)
チラ、と千代は雪人を横目で見つめ、そして膝の上で何かを決意するように、拳をグッと握った。
『ツルヱさん、その娼妓がいた店を覚えてないかしら』
できれば、茜が本当に娼妓の子か確かめたかった。
しかし、残念なことに彼女は首を横に振る。
『そこまでは……ただ関外の花街であったことは間違いありません』
『充分な情報だわ。ありがとう』
すると、ツルヱはズッズッと膝で進み寄り、千代の手を握った。
祈るように頭を垂れ、千代の手に額をくっつける。まるで亀のようだ。
『……っどうか、千代様は幸せになってください。ツルヱは、それだけをお祈りしております。ずっと……ずっとです』
彼女も母からいきなり離され清須川家からも追い出され、苦労しなかったはずがないのだ。
雨粒のようなシミができたシワシワの手を見て、はらり、と千代の頬に一筋の雫が流れた。千代は膝に寄る、あの頃より小さくなってしまった温かで優しい亀を、そっと抱き締めた。
『ツルヱさんも……どうかお元気で』
◆
茜の話を聞き終えたレオンと東郷屋伯爵は、やはり千代達がツルヱから聞いた時のように、目を丸くした顔を見合わせていた。
「確かに、娼妓を身請けしたり愛人として囲う者はいたが、どちらも皆隠れてだ。一緒に住まわせるどころか、娘であろうと公の場に出すなどもってのほかだぞ!」
ドンッ、と東郷屋伯爵の大きな拳が卓に落ちた。乗っていた皿が跳ねて、カチャンと一瞬だけ騒がしくなる。
食いしばった並びの良い歯が、震える口の隙間から見えていた。吊り上がった眉も三角に尖った目も顎周りのヒゲまで震えていて、顔からだけでも充分に彼の憤りが伝わってきた。
「お、落ち着いてください、伯爵。あーほらっ、僕の国にもロイヤル・ミストレスってのがいて――」
「一国の王とそこらの男を一緒にするな。日本はこの間法律で一夫一婦制と定められたのだ。だからこそ、妾をもったとしても公にはせんし、表立って可愛がったりもせん。それを……っまだ娘二人を同等に扱っていたなら、ここまで怒りはせんかっただろうが、妾の娘のほうをまるで嫡子のごとくとは呆れたわ」
一度卓に落ちた拳が、またぶるぶると震えはじめる。
レオンがそっと東郷屋伯爵の前から料理を遠ざけていた。
しかし、彼の拳がもう一度卓に落ちることはなかった。ふぅーと長い息を天井に吐き出し、握っていた拳を緩めて首筋をぺちぺちと叩いていた。みるみる吊り上がっていた眉が元の位置に戻ってくる。
どうやら、頭に登っていた怒気を、口から吐き出すことに成功したようだ。
「まあ、これについては私が怒ったところで仕方ないな」
「あら、急に萎みましたね。良かったです。せっかくの美味しい料理をひっくり返されたら堪りませんからね」
「ったく、お前は……雇用主に生意気な口をきくのもお国柄か?」
「紳士なので、おべっかを使わないだけです」
実に砕けたやり取りに、見ているこちらが笑顔になってしまう。雪人の様子をそっと窺ってみると、やはり彼も口角を上げていた。
二人の軽妙なやり取りは中々終わらず、東郷屋伯爵のコホンというわざとらしい咳払いでやっと一段落がつく。
彼は隣のレオンに向いていた目を、正面の雪人へと向ける。卓に乗せた腕に、体重を掛けて前のめりになった。
「しかし、これでどうやって彼女が、女学生では到底知り合えないようなお偉いさんと繋がっていたか、見当はついたな」
「やはり、花街の店ですか」
「その通りだ、一乗君。華族も花街を使う者は多い……色々な用途でな」
雪人の相槌に、東郷屋伯爵は正解とばかりに人差し指をピンと立てた。
しかし、次の瞬間には直立した人差し指は、へにゃりと力なく曲がる。
一緒に東郷屋伯爵と雪人の顔も曇った。
「もし、それが本当であれば、茜さんは非常に危ない位置にいるかと」
「ああ。ちょっと、おいたが過ぎたな」
二人だけ言外の部分で会話しており、花街に詳しくない千代とレオンは首を傾げるばかり。気付いた東郷屋伯爵が説明をしてくれた。
「茜さんは、花街で得た情報を使って、土井伯爵や銀行の融資関係者を脅している可能性が高い」
「それは、茜が娼妓の娘だからってことですか? ですが、清須川家に引き取られて来た時、茜はまだ幼く八つでしたよ。そんな、幼い子をお座敷になんか……」
東郷屋伯爵が、ははっと困ったように笑った。
「女性には、この世界はわかりづらいだろうな。足を踏み入れることすらないまま、一生を過ごす者がほとんどだ」
彼は花街という場所がどのような倫理観を持ち、どのような暗黙の了解の上に成り立っているか、丁寧に説明してくれた。
花街には多種多様な男達が集う。
単純に娼妓を買いにきた者もいれば、娼妓を商談時の場を和ませる酌婦と使う者など様々だ。男達は娼妓に快楽を求め、癒やしを求め、華やかさを求め、秘匿性を求めた。
花街はそのような男達の金によって支えられており、男達が求めるものを花街は提供する必要があった。
特に、『秘匿性』は花街全体の信用問題に関わってくることであり、娼妓達にも聞いたこと、見たもの、訪ねてきた者を決して外に口外しないことが義務づけられている。
国の律で定められているわけではないが、花街の不文律としてだが確かに存在していた。
そういった秘匿性が重視される中、時には子をもうけてしまう娼妓もいた。そういった場合、生まれた子は外の世界に出すか、店の中で皆と一緒に将来の娼妓として育てるかだった。
ツルヱの話を聞くには、茜は後者だった。
つまり、茜も座敷に上がらずとも、店の中での他の娼妓達の何気ない愚痴や、漏れ聞こえた座敷での内容を知ることができたというわけだ。
「もし、私達の推測が当たっていれば、まあ……花街の暗黙の了解を破ったんだ」
すべてを聞き終えた、千代は『危険』の意味を理解して額に汗を流した。




