茜は誰の子?
大寒も過ぎた頃。雪雲が空を重たくした東京の日暮れ時。
千代と雪人は、とある料亭の一室で並んで座っていた。
純和風建築の門構えが壮麗な二階建ての料亭は、街に増えた洋風建築特有の煌びやかさはなく傍目には質素に映るが、焼き杉の黒い高壁に囲まれ静かに佇む姿は、訪れる者に一種の緊張感を抱かせるに充分な風格があった。
この料理屋を訪ねる者は限られ、通された部屋は壁や襖でしっかりとよそとは区切られ、料理を運ぶ仲居達は、客の会話だけは聞こえないという不思議な耳を持ち、秘密を話すにはうってつけの場所だった。
二人の向かいには、卓を挟んでレオンと東郷屋伯爵が座っていた。
「お久しぶりです、東郷屋伯爵。先日の舞踏会では助けていただき、改めて感謝申し上げます」
雪人に倣い、千代も頭を下げる。
「気にするな。当然のことをしたまでだ」
なんとも気の良い御仁だ。
「しかし、てっきり今日はレオンだけだと思っていたのですが……どのような経緯で東郷屋伯爵までこちらに?」
それには千代も驚いていた。
雪人からは、東京でレオンと会うと聞いていたが、その際、東郷屋伯爵の名前はチラとも出なかった。部屋に入ってきた彼を見て「なぜ!?」と驚いたものだ。
レオンが『雪人に紹介したい者がいる』と言っているという話だったが、それが東郷屋伯爵というわけでもないだろう。彼とは舞踏会で既に自分も雪人も挨拶を済ませている。
「実は、雪人に紹介したい方はね、僕の家庭教師先のひとつなんだ。雪人と趣味が合いそうで、前々から紹介したいなって思ってたんだ。そんな中、君が融資の件で困ってるって話を東郷屋伯爵にしたら、ちょうど良いからその方を頼るといいって言われてね。僕は知らなかったけど、その方って有名な投資家なんだって」
「誰だろうか」と千代も雪人も首を傾げた。
すると、東郷屋伯爵が会話を引き継ぐ。
「とても気難しい御仁でな。気に入った者にはとことん胸を貸すが、まあ……中々人を気に入ることがないという方だ。華族の中でも屈指の資産家だが社交はお嫌いな方でね、表に出て来ることがめっぽう少ない。おそらく、この間の二井子爵の舞踏会にも招待されていただろうが、姿が見えなかったからやはり断ったのだろうな」
東郷屋伯爵の口ぶりから、彼がその相手に一目置いていることが窺えた。
そして、その人は人を中々気に入ることがないという話だが、そのような人を紹介できるということは、東郷屋伯爵はその人に気に入られているのだろう。
それだけでも、その人が誠実だろうことが窺えた。
東郷屋伯爵の闊達とした歯に衣着せぬ言動は、後ろ暗いことがある者には眩しすぎるものだ。
「レオンから軽くだが話は聞いておる。融資をして貰えそうだった華族達が、突然ことごとく掌を返したとか」
「はい」と雪人の顔が暗くなる。
「であれば、やはりその方に頼るのが一番だ。あの方は自分の意見を変えることはしないから、誰かが妨害しようとしても関係無い。それこそ、お上からの命令くらいないとな」
がはは、と東郷屋伯爵は自分の言葉に膝を叩いて笑い、酒を一気にあおった。そして、むせていた。レオンが「あーもー」と言いながら、懐から出したハンカチを東郷屋伯爵へと渡していた。
(誰かが妨害……)
東郷屋伯爵も、千代と茜の確執は知っている。
きっと姉である自分がここにいるから明言は避けてくれているのだろうが、彼も今回の件には茜が絡んでいると睨んでいるに違いない。
「しっかしなあ……」と、東郷屋伯爵は立派な顎髭を、難しい顔をしながらゾリゾリと掌で撫でた。
「池野侯爵は知っておるが、そのように無責任に物事を放り出すような者達ではなかったはずだが……」
それは千代も思った。
先日、舞踏会で挨拶をした時もとても物腰やわらかで、紳士的な人だと思ったものだ。他の融資を申し出てくれた二人についても同じだ。
「原因ははっきりとはわかりませんが、池野侯爵の使いの方が言うには、土井侯爵が訪ねてきた後に池野侯爵の態度は急変したと」
「土井侯爵か。池野侯爵のような清廉さは持ち合わせておらん、よくいる金満華族だが……彼女とはどこで繋がったのか」
東郷屋伯爵は納得がいなかないとばかりに、鼻から息を吹いて肩をすくめていた。
「実は、ここに来る前に訪ねた人がいるんです。その人に会うのが、私が東京に来たもうひとつの理由です」
「ほう、千代さんにそれほど会いたいと思ってもらえるとは、羨ましい限りだ。それで、相手は誰だね」
おどけて言う東郷屋伯爵に、クスッと千代も笑みを漏らす。
「清須川家の元女中頭で、昔に茜の不興をかってクビになった者です」
しかし、そう告げた瞬間、向かい側の二人の表情にピリッと緊張が走った。
◆
東京に着いた千代と雪人は、まっすぐに彼女を訪ねた。
彼女――寺野ツルヱは、同じ顔の家が横にずらりと並ぶ長屋に住んでいた。
『千代様、おひさしゅうございます』と言って、ツルヱは千代の姿を見るなり、瞼の皮膚が垂れて小さくなった目を潤ませ、板張りの床に額ずいた。
彼女を最後に見た時から約六年。記憶の中にいたツルヱよりも、目の前の彼女はより小さく皺が深くなったように見えた。
彼女は、清須川家をクビになった後、東京の個人商で女中として雇ってもらったらしい。個人商で大きくはないため、女中もツルヱひとりだが、そこの幼い娘の面倒を見るのが楽しいと言っていた。
しっかりと生活できているようで、良かった。
雪人が夫であることを伝えると、彼女は良かったと喜んでいた。父ならば、会社の利益になるからと、千代をどこぞの金持ち老人に嫁がせかねないと心配していたらしい。
千代は苦笑するしかなかった。実際、元はその通りだったのだから。
『千代様、わざわざこのような場所まで訪ねられて……いったいどうなさったのですか』
『ツルヱさんに聞きたいことがあるんです……でも、つらいことを思い出させてしまうかもしれなくて……』
『構いませんよ。わたくしの知り得ることであれば、なんなりとお答えします』
千代がツルヱを訪ねたのは、他の清須川家の女中から、ツルヱが辞めたのは茜が原因だったと聞いたからだと言った。
『実は、ツルヱさんは茜の不興を買ったから辞めさせられたって聞いて……何があったんだろうって。今、茜の母親のことを調べてて、もしかしてそれと関係あるのかなって』
彼女は茜の名前を聞いた瞬間、ハッとしたように目を瞠らせた。ただ眉は寄せられ、驚きというよりも苦痛の表情に見えた。
『わたくしが……茜様はこの屋敷に住むに相応しくないと、旦那様に忠告申し上げたからです』
『茜が住むのに相応しくない……?』
千代は雪人と顔を見合わせた。
『千代様は、奥様から茜様のことは何かお聞きになったことは?』
『お母様は最期まで何も言わなかったわ。実は、ここに来る前にお父様にも茜の生まれのことを聞いたの。でも、やっぱり何も答えてくれなかったの。それどころか、とても激昂されて』
はぁ、とツルヱは『やはり』というように、額を押さえ薄く長いため息を吐いた。
『まあ、当然でしょうね。そこは旦那様が一番触れられたくない部分ですから。何せ清須川家は、ただの士族家よりも横濱ではそれなりに名のしれた家でしたので、世間体というものが求められます。娼妓との娘を本家に引き取るなど、外聞はよろしくなかったのです』
『茜が……娼妓の子』
千代と雪人は、互いに息をのんだ顔を見合わせていた。
娼妓とは、昔で言う遊女のことである。江戸時代にあった遊廓は、名を変え今でも横濱に花街として点在している。
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