とんだハプニング
老女中で、母が嫁いできた頃よりずっと母の世話をしてきた女中だ。
彼女は、自分の記憶の中ではいつの間にか姿を消していたとなっていたが、まさか茜の不興をかった末に辞めさせられていたとは。
茜の不興とは何か。
母の女中であり、女中達のまとめ役である女中頭を辞めさせるほどの理由になる不興とは。
確証はない。が、次の瞬間には千代は紗江子の肩を掴んでいた。
「紗江子さん、お願いがあるんだけど。その方が辞めた後どうなったのか、調べてくれないかしら。私からとは言わずに」
「もちろんです、千代様っ」
◆
「勇一郎、茜さんとの仲はどうなんだ」
女中に父から電話だと伝えられ、勇一郎が受話器をとった瞬間に言われた言葉がこれだ。
婚約発表の舞踏会が終わってから、父からの電話が頻繁に来るようになった。その度に、これを開口一番に聞かれるのだ。正直うんざりする。
「はぁ……茜とは普通に上手くやってますよ」
「それならば良いのだが……」
おそらく、『千代に誘惑された』というのが、影響しているのだろう。
それで茜から愛想を尽かされていないかと、心配なようだ。
「勇一郎、わかっているな。二井家がこのまま裕福な華族で居続けるためにも、絶対に茜さんは逃がしてはならんぞ。お前が清須川製糸を継げば、会社の金をこちらにも自由に融通できるようになるだろ」
「そうかもしれませんね」
ただ、せっかく横濱にいるというのに、まだ清須川製糸の事業には関わらせてもらえていなかった。勇一郎だけ横濱の別宅に移り住んでいるのは、婚約者――千代や茜――との仲をいち早く深め、いつでも事業に参画できるようにするためだというのに。
将来の婿であり義理の息子がこんなに近くにいるのだから、『清須川家に今から慣れてもらわなければ』とか言って、祝言前でも息子同然に扱ってもらってもいいのだが、依然として義父からはなんのお声がけもない。
千代と婚約破棄をしても茜との結婚を許してくれたし、信頼されていないわけではないと思うのだが。
「それにしても、士族は自由で羨ましい。守るべき体面というものがないから、金稼ぎにいそしんでも誰も何も言わん」
「士族は士族で、平民の実業家を田舎者だとか言って見下してますがね」
受話口から、父の鼻に掛かったじっとりとした笑い声が聞こえた。
「我ら上の者からしたら、どんぐりの背比べなのになあ。実に滑稽だ」
「ああ、そういえば」と、父の声音が一段高くなった。
父がこういう声を出す時は、大抵、揶揄いの的を見つけた時である。
「清須川君は、この間の舞踏会で様々な華族に声を掛けて回っていたようだ。私との会話もそこそこに、まるで物乞いのようにホールをうろついておったなあ。そんなに華族との繋がりが欲しいのか、持たざる者は大変だな」
受話口の向こうで父が嗤っていた。姿など見えないが、どうせ電話の前でふんぞり返っているのだろう。
勇一郎は、自分だとて土地を売るくらいの懐状態だというのに、どうしてそんなに嗤えるのかと辟易した。金が手に入るのも、自分がその見下している士族家に、婿入りしてやるからだというのに。
「要件はそれだけですか。もう切りますよ。この後、その茜と出掛けないとなんでね」
尋ねはしたものの、勇一郎は父の返事も聞かずに受話器を下ろした。
近くにいた女中に、再度父から電話が掛かってきても、出掛ける準備をしなければならないから、今日はもう取り次がないようにと伝えた。
「茜と出掛けるのか……はぁ」
自然と重いため息が漏れた。
彼女との出掛けというと、ほとんどがただの買い物の付き添いになるのだ。
伊勢佐木にある喜音満館に行くのはまだ良い方で――あれは自分も楽しめるし――、大抵は洋装やら宝飾品やらを見ながら通りを行脚することになる。
しかも、高価な物に限って買ってくれという目をしてくる。
最初は、茜の美しさや愛らしさに負け買ってやっていたが、そう毎度毎度高価な物など買えるほど二井家は裕福ではなく、話を逸らしていた。
だからだろうか、最近は彼女と一緒に出掛ける機会が減ったように思う。
舞踏会以降、こちらから誘っても予定があると断られることも増えた。
もしかしたら、舞踏会でも色々な伯爵や侯爵に近寄っていって談笑していたし、そちらから誘いがあっているのかもしれない。茜は顔はとても美しいのだし。
「はぁ、今日は頑張ってご機嫌でもとるか」
父も二井家の財状は絶対話すなと言っているのだし、多少多めに金を使っても融通してくれるだろう。
◆
清須川家を訪ねた日から一週間。
夕食後、千代は自室で紗江子から届いた手紙を読んでいた。
そこには、彼女が同僚女中に聞いてくれた話と、『寺野ツルヱ』の現在の住所らしきものが書いてあった。
「そうよ、ツルヱさんよ。お母様の女中は寺野ツルヱさんだったわ」
名前を思い出すと一緒に、記憶まで鮮明になってくる。
まだ母が元気な頃、ツルヱはいつも母親の隣にいた。なで肩で少しだけ背中が曲がり、母よりも一回り小さく見えた記憶の中の彼女は、どんな時でも母や自分を見守るような笑みを浮かべていた。母よりも年上で、髪は黒よりも白が多く、彼女には無意識に祖母に対するような敬慕を覚えていたのだと思う。
女中頭として申し分ない機転と面倒見の良さや、母に真摯に仕えてくれ心の平穏を保たせてくれた人間性の豊かさを持ち、誰がどうみても手放すべき者ではないというのに、茜の不興をかえば有無を言わさず一瞬だ。
「東京……」
手紙には東京の住所が書かれていた。
東京には先日の一件で良い思い出はないが、訪ねるしかないようだ。
ぶるっと身体が震え、くしゅんっ、とくしゃみが出た。
「ふう、随分と冷え込んできたわね」
朝から続くざざ降りの雨で、今日は一段と冷える。
窓に打ち付ける雨音は、トタン屋根に豆をばら撒いたように騒がしく、いつもなら微かに聞こえる階下のミツヨ達の音も今は、誰もいないかのように聞こえない。
千代は手で腕をさすりながら、壁に掛かる時計を見やった。
「あらやだ、もうこんな時間だわ。お風呂に入らないと」
ちょうど良い。風呂で身体を温めよう、と千代は入浴の準備を整え階下へと下りていった。
しかし――。
「へえッ!?」
「んんっ!?」
脱衣所で着物を脱いで風呂場の扉を開けた先には、既に先客――湯に浸かった雪人がいた。
もうもうと温かな湯気が風呂場を曇らせているが、皿のように見開いた互いの目はしっかりと、かち合っている。
『幻かな』と一瞬、現実逃避に思考が寄るが、湯気の向こうに見える雪人の太い首筋に骨張った鎖骨、広い肩幅にがっちりとした肩と逞しい腕は実に生々しく、急速に全身の血が顔へと集中する。
人は極度に混乱した場合、とりあえず叫ぼうとする生き物らしい。




