一方そのころ
「お姉さまよりも?」
「当然だ。あれの母親は頭は良かったが、お前の母と違って可愛げがなくてなあ……千代はすっかり母親に似て育ってしまった。元より愛情など持ったことないが」
茜は顔にこそ出さなかったものの、優越感に密かに心を震わせていた。
そうだ。姉は自分よりも愛されず、恵まれず、下にいなければならない。
「ねえ、お父さま。男の話って、二井家が土地を売ったとかいう話ですか?」
「なんだと!? 本当か!」
「えっ!?」
父の目がわなないていた。
「もしかして……お父さまはご存知なかったんですか?」
茜は訝しげに眉根を寄せた。
父の反応からするに、本当に知らなかったようだ。一瞬だが、椅子から腰が浮いていた。
それにしても、婿の実家の情報を、婚家の主人よりも赤の他人の雪人のほうが詳しく知っているとはいかがなものか。
晩餐会の後は、二井子爵との会話もそこそこに、すぐにホールに姿を消していた。そんなだから、二井家の話も入ってこないのではと思えた。二井子爵と父の様子を見た限りでは、不仲という感じはしなかったが、何か互いが上っ面というか。まあ、士族と華族という隔たりがある以上、被る面は相応に厚くなるだろうが。
しかし、仲の良さなど茜にはどうだって良いのだ。大切なのは、清須川製糸の令嬢と子爵家の親族という肩書きだけ。その二つがあれば、自分は邪険に扱われない。
「お父さま、万が一、二井家が苦しそうなら、うちから融通してあげてくださいね。私、勇一郎さまの実家が没落されたら、悲しいですもの」
「そうだな」と、父は握ったままだった新聞をおもむろに広げて読みはじめた。すっぽりと新聞に覆われ、顔が見えなくなってしまった。
「心配するな、茜。相手は華族で、それにあの屋敷を見ただろう。大方、勇一郎君に持たせるまとまった金のため、使い勝手の悪い土地でも手放したんだろうさ。よくある話だ」
「なるほど。まあ、そうですよね」
よく考えれば、勇一郎はワンピースやショールを買ってくれたりもしていたし。気にするようなことでもないか。
それに正直、自分と結婚するために、土地まで売ってくれたと聞いて悪い気はしない。
(結婚後は、もっと色々と豪遊できそうだわ)
「では、失礼しま――」
「茜」
踵を返したところで呼び止められ、半身で振り向く。
「はい?」
「お前の母だが……今どこにいる?」
依然として、父の顔は新聞に隠れている。
「……知りません」
「そうか」
それきり父の声はせず、新聞を捲る紙の乾いた音だけが縁側で鳴っていた。
茜も何も言わず、止めていた足を動かしその場を離れた。
(『――お前は私が愛した女の娘だ』ねえ……? そこは、『私が愛する娘』とは言わないのねえ……)
自分が可愛がられているのは事実だ。だが、それが純粋な愛情からだとは思っていない。
そこまで、自分はめでたくない。
◆
舞踏会の日から二日が経った。
千代は筆を置き、椅子の上で「ふぅ」と両腕を思い切り上へと伸ばす。背中からポキポキと小気味良い音が鳴った。
朝からずっと同じ姿勢で手紙を書いており、今、最後の一枚を書き終えたところだ。
最後の一枚を封筒に入れ、封をし、切手を貼る。切手を撫でるような手つきで貼る千代の顔は、冬の真っ只中にあって春陽の温もりに感じているような、穏やかで幸せそうなものだった。
「皆さん、お年賀喜んでくださると良いな」
ずらりと机の上に並べられた手紙達。
その宛先は、先日の舞踏会で挨拶をした者達だ。
先日、挨拶させていただいたお礼を添えた年始の挨拶状だ。華族に士族、実業家と宛先は多岐に富んでおり、かつて千代が清須川製糸の名で挨拶状を送っていた先でもある。
東郷屋伯爵含め皆が、いつも楽しみに読んでいると言ってくれたものだ。既に嫁いで清須川の名字ではなくなったが、千代個人からであれば問題ないだろう。
「さて、お昼ご飯を食べたら出しに行きましょう」
◆
昼食後片付けをし、屋敷内が一段落つく時間が、いつもナリが買い物に出る時間だ。
「ええ!? ちょっとどうしたのよ、サエちゃん!」
ナリは、いつも通りの時間に、いつも通りの商店街に買い物に来て、よく会う他の家の女中――サエと、まあまあいつも通りに出会った。のだが、サエの顔だけはいつも通りではなかった。
「頬が腫れてるじゃん!」
サエの左頬が赤く腫れているではないか。見ているこちらが痛くなりそうだ。
「どうしたの!? 大丈夫!?」
「う、うん……ちょっと、か、階段で転んじゃって……」
「相当大胆な転び方したんだねえ、次から気を付けなね」
「そ、そうする」
サエは、横流しで後ろ髪と一緒に纏めていた前髪を、指でちょいちょいと引っ張り出して頬を隠そうとしていた。
サエとの出会いは、ひと月前に彼女が転んで、買い物籠の中身をぶちまけていたのに出会い、そこで一緒に荷物を拾ってあげたことからはじまった。
以前から時折生傷を作ってくることがあって、ちょっと鈍くさいのかもしれない。
会えば互いに声を掛け、今では商店街近くの神社の石段に並んで座って、話し込むくらいの仲である。
そして、今日も今日とて雑談の時間だ。
「ナリちゃんのお勤め先の主人って優しい?」
「うん、とっても良い方だよ。あたしら女中にも優しいし、威張ってないし、ちょっと恋愛音痴っていうか……それがまた可愛らしくて。おかげで、女嫌いだった旦那様もでろでろだよ」
「で、でろでろ……」
「うん、でっろでろ」
世間一般で言うでろでろとはまた雪人は違うし、少々誇張表現かとも思ったが、彼が千代に惚れ込んでいることは誰の目にも明らかだし、サエが雪人に会うこともないしいっか、とナリはひとり頷いた。
「そっか」と言うサエの声はどこか寂しそうで、彼女はゆっくりと視線を足元へと落としていた。
「サエちゃんところは? サエちゃんのご主人って、その家の娘さんだっけ? 確か、結婚して出て行ったお姉さんに意地悪されてたとかいう」
「う、うん、そうなんだ」
「もうお姉さんもいないし、ご主人はのびのびやれて良かったじゃん。あーけど、そういった意地悪なお姉さんをもらった婚家は、今頃後悔してるかもね。あっ! 下手したら、そのお姉さん離縁されて戻ってくるんじゃないの!?」
サエが以前話していたが、彼女の主人はとても美人で、姉は地味なのだとか。
それで妹の美しさに嫉妬した姉が、妹に意地悪とは……どこぞのお伽草紙にでもありそうな物語だ。そういった物語の最後は大抵、意地悪な姉は婚家で化けの皮が剥がれ、離縁されて助けてくれる人もおらずひとり寂しく消えていくというものだ。
しかし、もし家に戻ってきたら、妹をまたいじめるんじゃなかろうかと他人ながら心配になる。やはり、自分が仕える主人がいじめられるのは、女中であっても嫌なものだ。
それを思うと、実に一乗家は平和だ。むしろ、楽しいほどである。




