茜の計算外
パシンッ、と肌を打つ痛々しい音が茜の部屋に響いた。
「ねえ、なんなのあの女」
パシンッ、パシンッ、と茜は何度も手を振り上げては何度も振り下ろした。その度に、女中の紗江子は唇を噛み、顔や身体に走る痛みに耐えた。悲鳴など上げようものなら、よりひどい仕打ちが待っていると知っているからだ。
「ねえ、いつ華族を味方につけたの?」
いつしかパシンッというまだ軽かった音は、バシンッと重く痛々しさを倍増させた音となって部屋に響いていた。
「ねえ? ねえっ……、ねえって……聞いてんでしょうがッ!」
声を癇癪に震わせていた茜は、とうとう絹を裂くような金切り声を上げて紗江子の頬を渾身の力で打った。
どだんっ、と重鈍な音と共に、いとも容易く紗江子の身体は床に倒れ込んだ。
「も……申し訳ございませ……っ茜、様」
すぐに身を起こした紗江子は、畳に額を擦りつけ茜に許しを請うた。
「せっかく偉い人がたくさん集まる場で、あの女を貶めてやろうと思ったのに……っ、伯爵ぅ? はぁ? 二井家の子爵よりも上ってどういうことよ」
噂は結局、夜の喫茶店に来るようないわゆる庶民の間でしか広まらなかった。それもそうだ、よく考えればあのような場所に来るのは労働者達だ。
華族は働かない。
庶民が出入りするような場にはいないのだ。横濱に住んでいる勇一郎すらも、こちらが教えるまで姉の男遊びの噂など知らなかったのだし。
「チッ、そうよね。金を持ってる奴らがいるのって、あそこじゃなかったわ」
自分は奴等がいる場所ならよく知っていたというのに。
女学校にも通い、綺麗な着物を着て、少し綺麗に生きすぎたらしい。忘れてはいないつもりだったが、人は環境に慣れる生き物のようだ。
「だからこそ、今回は直接失態を犯させて、全員の前で貶めてやろうと思ったのに」
妹の婚約者を婚約発表の場で寝取ろうとしたなど、誰が聞いても眉を顰めたくなる話だ。そうすれば、あとは雪人が自分の手に落ちてくるのも待つだけだったのに。
ホールでは、どうせ警戒しているだろうから敢えて関わらないでおいてやった。チラチラとこちらの動きを確認する姉の視線を感じていたが、すべて無視した。途中、金髪の男と何か話していたようだったが、おそらく雪人の知り合いだったのだろう。こちらもこちらで、知り合いを見つけるのに忙しかったから、それ以降はあまり注視できなかったが。
「いつの間に伯爵なんて札……っどっから出してきたのよ! はぁ!? 本当にジジイ達と寝てんじゃないの!?」
爵位だけはどうにもできない。没落しかけの家ならば、まだ金で操れたりはするが、態度からするに、あの伯爵はそういった家ではないだろう。むしろ、華族の中でも潤っている部類だ。
二井家についても、土地を売ったことが本当か聞こうとしたら、関わるなとばかりに睨まれた。本邸はさすがに豪奢だったが、ガワだけ綺麗にしている華族など腐るほど見てきた。
華族という肩書きの男は、皆して矜持が高い。
だから、絶対に家計状況など言わないだろう。
「にしても、お義兄さまが土井侯爵に食いつかなかったのは、計算違いだわ」
融資がおりないことで、雪人は相当慌ただしくしているらしい。
それは、足元で未だに潰れたガマガエルのように伏せっている紗江子が、一乗家の女中との話から聞き出している。
毎日毎晩、遅くまで駆けずり回っているようだ。
だから、投資家として名がある土井侯爵の名を出せば、紹介してほしいと泣き付いてくるかと思ったというのに。いや、勇一郎ではあるまいし泣き付いてはこないだろうが、それでも頭くらいは下げてくるかと思った。そうしたら、それを貸しにして、雪人に首輪を付けてやれたというのに。
苛立ちに、茜はガリガリと親指の爪を噛んだ。
「土井侯爵も逃げられると思ってるのかしら……っふふ、あたしが勇一郎の妻になるって知ったあの時の顔……鳩が豆鉄砲ってああいうのを言うのね」
あのホールには土井侯爵以外にも、見たことがある顔がチラホラとあった。向こうは気付いていなかったが、こちらから挨拶に言って、過去の話をそっと耳打ちしてやれば『なぜ!?』と言葉を失っていた。
知らない奴が自分のことを知っていることほど、不安になることはないだろう。
「ひとまず、見知った顔の人達には釘を刺しておかなきゃ」
姉が当初通り老人に嫁いでいれば、ここまでする必要はなかったのに。実に面倒だ。やはり、すべて姉が悪い。
パキン、と親指の爪先が折れて畳に飛んだ。
「ねえ……紗江子ぉ?」
紗江子の肩がビクッと跳ねた。
(こぉんな年下に怯えるなんて、なっさけなー……バカみたい)
茜は冷めた目で紗江子を見下ろした。
自分は決してこんな人間にはならない。
他人に頭を下げて許しを請うような生き方はしない。
「紗江子はぁ、誰が一番悪いと思う~? 男遊びが過ぎて婚約者に婚約破棄されるのもぉ、お義兄さまの会社が上手くいかないのもぉ、ぜぇんぶ誰のせいだと思う~?」
「……っ、ち……千代さ、ま……です」
「だよねぇ~。お姉さまが幸せになろうとするから、関わった人間が不幸になっていくんだよねえ。だったらぁ、お姉さまって不幸になるべきじゃない?」
「はい……っ」
膝を折り、茜は紗江子の震える背中を撫でる。
「だったらさぁ、一乗家に迷惑かけないよう追い出してあげなきゃ。わかってるわよね? じゃあ、行きなさいよ」
紗江子はガバッと身体を起こすと、逃げるように部屋を出て行った。
紗江子を一乗家の女中と近付けた。おかげで、一乗家の内情はわりと簡単に把握できた。ついでに、紗江子には姉の悪口を一乗家の女中に吹き込むようにと命令している。
その程度で姉を一乗家の中で孤立させられるとは思っていないが、やらないよりかはマシだろう。
紗江子は、清須川家の女中の中で、姉が離れ暮らしになってから雇われた女中だ。養母についていた年嵩の女中が消えたあとに入ってきた。他の女中は、元は千代についていたり、千代に関わってきたから使えない。下手な情がない紗江子はちょうど良かった。
父が、姉よりも自分を可愛がっているのはわかっていた。
それが父からの純粋な愛情からだとは思っていない。そこまで自分はめでたくない。
まあでも、士族でありそれなりに横濱では名のある会社の社長家族として、迎えられたのはそこそこ良かったのかもしれない。
「お父さま、いますか」
「茜か、どうした」
縁側で難しい顔して新聞を読んでいた父親は、茜に気付くと新聞を脇机に置き、ささやかな笑みを向けた。
この屋敷で父がこのような顔をすることを知っているのは、自分くらいだろう。自分以外の者に向ける顔は、いつも口が山なりになっていて、常に不機嫌そうなものだ。
「立食のほうでは、色々な華族の方々の元へと行ってらっしゃったようですが、どのようなお話をされたんです?」
「……茜が知る必要はないさ。男の話だ」
父は置いたばかりの新聞をまた、手に取っていた。
「男の話ですか……私に何か隠してません? 私のことがお嫌いですか」
「そんなことはない! お前は私が愛した女の娘だ! 大切に決まっている!」
父が掴んだ新聞は脇机に振り下ろされ、パスンと情けない音が鳴った。
置いたり持ったり叩いたりと、実に忙しい右手だ。




