これで終わった……?
二井子爵は顔を青くし、雪人は瞠目し、千代は息をのんで驚き、当然成り行きを見守っていた者達も目を瞬かせていた。次に東郷屋伯爵が顔を上げた時、彼の顔は清々しいほどの笑顔で、「では、続きを楽しもうか」とカラッと言ってのけたのだった。
二井子爵が気まずそうに足早にその場を立ち去った後、千代は東郷屋伯爵に駆け寄った。
「東郷屋伯爵、申し訳ございません……っ! ご迷惑を……っ」
「なぁに、勝手に私が首を突っ込んだまで。迷惑ならば最初っから見て見ぬふりするわ」
「東郷屋伯爵、誠に感謝申し上げます。自分の妻を守ることができず、己が未熟さを恥じ入るばかりです」
「恥じるな恥じるな。君がしっかり夫人を守ろうとしとったのは、レオンと見ておったよ」
雪人が深く腰を折ると、その背を東郷屋伯爵は分厚い掌でポンポンと叩いていた。
すると、「そうそう」と言いながらレオンまでやって来た。
どうやら少し離れたところから静観していたようだ。
「さっきの件もあって、また何か絡まれてるんじゃないかと思ったんだ。さすがに僕じゃ君と同じような身分だし助けられないから、伯爵にお願いしたんだよ」
「ありがとう、正直助かった」
雪人はやっと愁眉を開いて息をつけたようだった。
「相手が華族じゃ分が悪すぎるからね。伯爵ったら、『千代さんが困っているのならやぶさかではないなあ』とか言いながら、なぜかウキウキしてたんだよ」
「ハッハッハ! この年になると、婦女子を守るような出来事は中々起こらなくてなあ。やはり男児たるもの、いくつになっても婦女子を守りたいものよ」
「もうっ、伯爵ったら……奥様が『もう少し落ち着いてくれたら』と頭抱えるわけですよ」
レオンの小言に、東郷屋伯爵はまたも「ハッハッハ!」と腹に響くような闊達な笑い声を上げていた。彼を見ているとこちらまで心が晴れてくるようで、千代も雪人も彼に素直な好意を抱いた。
「それに、結局は私を動かしたのは彼女の人徳よ。さすがに私でも、見ず知らずの婦女子と子爵との揉めごとに首は突っ込まん」
千代は噛みしめるように礼を口にして、再び腰を折った。伏せた顔の下で、涙がこぼれそうだった。
「しかし、どうやら一乗君は、二井子爵の子息からは目の敵にされておるようだな。レオンからも聞いたが、身分の違い程度で何をそんなに絡むようなことがあるのかと思ったら……なるほど、千代さんはあのご子息の元婚約者か。これは、向こうにまだ未練があるのかな」
千代と雪人は顔を見合わせた。
そして千代が頷くと、雪人もその意味を察し、彼らに千代が婚約破棄された経緯から、勇一郎に襲われかけたことまで説明した。
話を聞き終えた二人は絶句していた。
それはそうだろう。義理とはいえ妹に、家を巻き込んでまで執拗に貶められているのだから。さらに、一乗汽船の融資案件にまで、茜か勇一郎が絡んでいそうな気配があるのだ。
姉妹喧嘩という程度は、とっくに越えていた。
「やっと千代君が幸せになってくれたと思ったのに……」
レオンは口を山なりにして悲しそうな顔をすると、千代の手を取ってギュッと両手で握りしめた。
「何かあったら言って。僕にできることは力になるから」
「ありがとうございます、レオン先生」
女学校時代も、こうして彼はいつも自分を助けてくれた。
図書室にいる時、たまにやって来ては『他の子には内緒だよ』と言ってキャンディーをくれたりもした。透明でパリッとした西洋の紙でリボンのように包まれたキャンディーは、赤や緑、黄色に紫とキラキラしていて、まるで宝石をもらっているようだった。嬉しくて甘くて美味しくて、その優しさがあったからこそ、『同級生や妹が羨ましい』『どうして私だけ』といった息苦しさに、押しつぶされずに済んだのだと思う。
その後、二人は「まだ飲み足りないから」といって、ホールの人だかりの中に消えていった。気付けば、ざわついて成り行きを見守っていた者達も、何事もなかったかのように歓談や食事に戻っていた。
さすがに千代と雪人はこのまま居続けるのは気まずいと、二井子爵に一応の辞去の言葉を告げ、舞踏会を後にしたのだった。
最後に見た勇一郎は、目が合うと気まずそうに顔をすぐに逸らしていたが、その奥にいた茜は彼の肩越しにまっすぐ千代を見ていた。
感情の読めない、井戸の底のような真っ暗な目で。
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年始に完結します




